83 二泊三日の遠島ー八丈島(その1) 

 二泊三日の遠島ー八丈島(その1)

 2024.2・17ー2,19(ごめんなさい、長い間さぼっていて。桜も散って藤の花が咲く頃になってしまいました。)

  時代劇の定番「大岡越前」や「遠山の金さん」で、最後のお白州の場面で、江戸町奉行大岡越前や遠山金四郎が、悪人に「終生遠島を申しつける」などと言い渡しをしている「遠島」とは、多くは八丈島であったようです。その八丈島、羽田からANAのフライトで55分なのに、まだいったことがなかったので、「行ってみよう」ということになりました。

 搭乗口は、羽田空港の奥の奥、帰りもバスという、国内線にしては大変不便なところにあります。 それでもお昼の便は満席に近くて、三つの団体ツアー客と乗り合わせました。島内のバス便は大変不便なので、ツアーは便利だろうなと思いつつ、いつもの通りの個人旅行。レンタカーも方向音痴の私にはしんどそうなので(着いてみたら、八丈島は東京都、東京都はお金持ちなので、道路が綺麗に整備されていて、しかも車が少なく、私でもレンタカーOKだったと反省したのですが)、宿に頼んでいた迎えの車で、とりあえず宿まで送ってもらいました。車中で、八丈島といえばフリージア、前に頂いたことがあるので、どこに行けば見ることができますか、と聞くと、もうフリージアを栽培しているところは殆ど無いとのこと。現在はやっているのはフェニックス、お花のあしらいに使う緑の葉、年金生活者の方が、庭に植えて、時々一枚ずつ切って農協に持って行くのだとか。空港から10分くらいで到着した宿は、リゾートシーピロス、ベッドと和室があって、部屋にはお風呂とトイレ付き。当たり前のようですが、八丈島は民宿も多く、畳の部屋、トイレ、風呂共同というところも多いのです。底土港近くの海辺の宿だったので、浜辺に出て海をみたりしながら、のんびり。年相応のゆったりした旅です。食事は、新鮮なお刺身と島寿司が三つ、あとはデザートのプリンが美味でした。


 翌朝、底土港に到着したフェリー。竹島桟橋から出発します。写真ではうまく出ませんが、海は大変美しいブルーです。

 二日目は、晴花日(『晴れたら花の日』の意味。Hale Kahi(はじめの家)というハワイ語が語源だそうですの河田元さんにガイドをお願いしました。山岳ガイドの資格をもっている方で、HPもあります。写真はウェルカムレイ。旅の安全を祈るためティリーフで前日の彼が編んでくれたのです。こんな手間のかかることをして下さるのは、彼の誠実な人柄ゆえ。虎屋のミニ羊羹のおまけ付き。

 

   まずは、河田さんの車で優婆夷宝明神社へ。事代主命のお妃である八十八重姫とその子供古宝丸が八丈島の祖先神として祀られています。母子神というのは、南ポリネシアの文化の影響を受けているという説もありますが、成立起源及び年代とも不明、ただし927年に完成した延喜式・神名帳に優波夷命神社として名前が記されているので、非常に古くからあった神社であるということができます。優婆夷というのは、難しそうな名前ですが、仏教でいう在俗の女性信徒のことを意味します。神社なのに、仏教徒であるという名前がついているのがとても不思議です。命名の由来は不明ですが、これも八丈島の不思議さと申しますか、様々な文化が混淆していることの一つの現れといえるのかもしれません。




 これは優婆夷神社にあった蘇鉄。一番古いものは樹齢700~800年程だそうですが、一度台風で折れ、その折れたところから再生したのであまり大きくはない、と河田さんが説明してくれました。めったに咲かない花が咲くと御赦免船が来るといわれていたので、御赦免花という異名のある、流人たちの悲しい願いが託された八丈島らしい植物です。残念ながら花は咲いていませんでした。


 これが蘇鉄の花(右上と左下の小さな写真)。3日目にいった八丈支庁の歴史民俗資料館にあった写真を撮影したものです。中央の石塔は延享四(1747)年に流罪となった江戸麹町龍眼寺の僧、慈運法印の墓。無実を訴えながら断食死した慈運法印の墓に植えた蘇鉄に花が咲くと不思議に赦免状が届き、誰言うとなくこの花を赦免花と呼ぶようになったのだそうです。


 

  

 次は大原の玉石垣。綺麗な丸い石が並べられて石垣になっています。この丸い形は、削ったのではなく、海辺にある自然石の形のよいのを拾ってきたのだとか。運ぶのは流人達の仕事、大変重いので、一個運ぶと握り飯1個または手拭い1本一食もらえたといいます。 米の乏しい八丈島では破格の報酬であったとか。

 この精巧な石組は、近藤富蔵という人が考案したそうです(その2に載せる予定の服部屋敷の解説には、近藤富藏による石組とあります)。近藤富蔵は、蝦夷地開拓に功のあった近藤重蔵の長男ですが、隣人7人を斬殺して、文政10年、24歳で八丈島に送られましたが、旧家の系図の整理をしたり、彫刻をしたり、六法積玉石垣を考案して、島の人に重宝がられ、さらに父親譲りの文才をもって『八丈実記』69巻を著しました。明治13年、赦免されて本土に帰りましたが、2年後には愛する八丈島に戻り、83歳で死んだという最後の流人です。『八丈実記』は、八丈島の江戸期の記録の一等資料です。

 右の写真も3日目にいった八丈支庁の歴史民俗資料館の展示。近藤富藏コーナーとあります。時間もなかったし、その時はきちんと調べていなかったので、写真がいいかげんですみません。下の切れているのが、富藏の年譜です。
 
 この写真が続きですが、ちゃんとつながらなくてごめんなさい。ただ、左下にあるのが、富藏が書いた『八丈実記』の原本の写真ではないかと思われます。

 流人たちは、悪事を働いたといっても、もともと石工、木工などといった技術者や、知識人も多く、島にさまざまな技術や文化を伝えたのでした。

沖で見たときゃ鬼島とみたが、来てみりゃ八条は情け島 ショメ ショメ(八丈島ショメ節)          

 とあるように、流された流人達を島人は喜んで迎えたのだそうです。開墾すべき土地はたくさんあるのに人手は足りない八丈島にとって、流人は労働の担い手であり、新しい文化や技術を携えてくる、大切な存在であったようです。ただ。環境は厳しく、食料は乏しく、しばしば飢饉で亡くなったという話も聞きました。

  流人ばかりではなく、黒潮の流れのなかにある八丈島には漂着船も多く、その船籍地は、大阪、摂津、紀州、尾張、薩摩、江戸、土佐、石巻、松前など日本全土に及び(小川武『黒潮圏の八丈島』)、琉球船や中国船も漂着したという記録が残っているといいます。   

   近藤富蔵は最後の八丈島流人ですが、流人第一号は、秀吉から五大老の一人に任じられた岡山城主宇喜多秀家でした。秀家は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて、石田三成を助け、西軍の中心となって大敗、逃走して薩摩の島津氏にかくまわれますが、結局、家康のもとへ身柄を引き渡され、島津氏の助命嘆願により死を免れ、慶長11(1606)年4月、伊豆八丈島へ流罪となります。秀家は、50年過ごした八丈島で亡くなりました、享年84歳(明暦元〈1655〉年11月20日)。すでに第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きたことになります。

 秀家の正妻の豪姫(前田利家の娘)は、八丈島への同行かなわず、かわいそうということで岡山の人が建てたのが、この二人で夕日を見ている像なのだとか。秀家の命日には岡山からきびだんごがどっさり届くとか。岡山との交流は今でも続いているそうです。



 八丈島のお酒といえば焼酎ですが、これも薩摩から教えてもらったものとか。宇喜多秀家がかくまわれていた薩摩と関わりがあるかもしれず、八丈島というのは、ほんとうに、日本全国のみならず、他国も含めたさまざまな文化が入り混じり合っているところだということを知りました。

 これを書くにあたって、参考にした論文(八丈島の歌や踊りの研究ですが、八丈島についてもうまくまとめられています)の一部を引いて、その1のまとめとします。

  「(『八丈実記』によれば)慶長11年,関ヶ原の敗将 宇喜多秀家一族が配流されてから明治4年までの265年間に、徳川幕府直轄の流刑地としで約1800人の流人が送られている。その内訳は、官女2人、御家人381人、陪臣62人、小者61人、女73人、僧221人、山伏6人、社人10人、百姓281人、町人315人、無宿344人、非人その他15人のように、種々雑多な階層の流人を迎えているが、元禄の頃までは、政治犯、思想犯などが多く、身分も高く教養もあったので、島の人々はこれらの人に対して蔑視の感情がなく、むしろ歓迎し、各地のうたや踊りなどの文化を吸収したとみられる。」

(松本 千代栄他「運動表現の民族的特性に関する研究第二報」『日本女子体育連盟紀要』 1973 (72)、のなかの八丈島についての記述)

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84 二泊三日の遠島ー八丈島 ( その2)

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コメント

木の葉 さんのコメント…
八丈島〜行ってみたい島です。黄八丈の実物を見てみたい(あわよくば買いたい!)と思いながら、ツアー代金が高くスルーしていました。最後の流人富蔵の波乱に富んだ人生。大量殺人しても流罪で済んだ?日本の刑罰史にも興味が湧きました。外国と違い、日本人は優しいのでしょうか?ガイドに恵まれてラッキーでしたね。
浄瑠璃の定番「平家女護島」は鬼界島に置き去りにされる俊寛の話です。足摺りをして嘆き悲しむ俊寛の姿で終わります(今、国立劇場は危機的状況です)八丈島は流人が戻ってきた!びっくりでした。
M.Nakano さんの投稿…
 木の葉さん、いつも有り難うございます。八丈島は近いので行きやすいですが、飛行機が風に弱いです。帰りがちょっと大変でした。ガイドさんは、とてもよい方でしたが、山岳ガイドが本業なので、八丈富士とか三原山の山登りではない単なる案内は、彼にとってちょっと物足りなかったかもしれません。優婆夷神社、赦免花、宇喜多秀家の話はしてもらいましたが、慈運法印と、近藤富藏の話は、三日目に自分たちで行った八丈島民俗資料館をみたり、あとで調べ直したりしたものです。近藤富藏の殺人は事情があったようで、情状酌量の余地があったのでしょうね。八丈島では、島の有力者の娘を妻として、一男二女をもうけたといいますので、住み心地がよかったのかもしれません。

 国立劇場は、本当に大変そう。応援のつもりで、昨年、出先の北千住にあるマルイの劇場で文楽をみました。

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