53 思い出さずや忘れねばー閑吟集

 思い出さずや忘れねばー閑吟集

  思い出すとは忘るるか

  思い出さずや忘れねば

 2019年ー2020年に放映された明智光秀を主人公としたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回に登場した言葉なのだそうです(見ていないのでどういう場面かはわかりません)が、出典は室町時代後期に成立した小歌集『閑吟集』にあります。

 「思い出す」ということは、過去にあった事柄や記憶を「忘れる」という過程を経なければ起こらない心のメカニズムですから、ずっと忘れることなく意識し続けていれば「思い出す」必要はなくなるわけです。

 こんな理屈を述べなくても、恋の場面で、男が「たまには思い出してくれよ」というようなことを言った時、女が「思い出したりなんかしないわ」と答えて相手の意表を突き、「一時だってあなたのこと忘れないから」と続けて、男心を鷲づかみにするという場面でしょうか。女は遊女、遊女の決まり文句的な手管だったのかもしれません(現代は男女と決めてしまってはいけないのかもしれませんが)。  

  浜崎あゆみの「HANABI」という歌の一節に、

      君のこと思い出す日なんてないのは

  君のこと忘れた時がないから

という歌詞があるようですので、彼女が、『閑吟集』のこの歌は本来恋歌であったという直感的理解をもっていたことを示しているように思います。

 けれど実際に人は、そんなにずっと一つのことを考えつづけていられるものでしょうか。人の意識の流れというものは、いくら恋しい人のことのことでも、少しは忘れてしまう時間がある、そういうものなのではないでしょうか。たいていの人間は、二十四時間ずっと同じことを考え続けることはできないように思うのです。どんなに大切なことでも、つらいことでも、何か他の出来事があったりすれば、人はそちらに意識を向けてしまう。もちろんまたそちらに戻ることはあるででしょうけれど、太陽や死というものをずっと見続けていられないように、そうしたあれこれの方向に意識が向かうことで、自分自身が救われるところがあるのではないか、ということに最近気がつきました。 

 意識の流れの手法で、生、死、時を描いたとされるバージニア・ウルフの小説『ダロウエイ夫人』は、クラリッサ・ダロウェイという上流階級の夫人が、ロンドンの自宅で夜会を開くための一日が描かれています。彼女を軸に夫リチャード、思春期に同性愛的関係にあったサリー、元恋人のピーター・ウォルシュ、娘のエリザベスといった人物が登場しますが、最も特徴的なのは、クラリッサと直接関わりもない思われる、第一次世界大戦に従軍し、戦争のトラウマに苦しむ中流階級のセプティマスという男が登場することです。彼はクラリッサと同じ「鳥の嘴のような鼻」を持つが、同じ景色を見て抱く感慨はクラリッサとは全く逆なのです。精神病院に送られることになったセプティマスは最後に窓から飛び降り自殺をし、クラリッサはそれを知らされますが、彼女の人生が彼と直接交わることはありません。

 若い頃読んだ時には、なぜなんの関係もない男が、クラリッサのことを描く場面を裂くように登場するのだろうかということがわからなかったのですが、今考えると、セプティマスはクラリッサの影であり、彼女の意識の底にある彼女自身なのだと思われるのです。そう考えるとあまりにも異なる二人の人物を描くことで、バージニア・ウルフは、クラリッサの意識の流れのあり方が常に同じ方向にあるのではないことを示している、つまりクラリッサにとって受け入れやすい意識の流れはクラリッサやその周辺の出来事としてして描かれるが、セプティマスは、彼女にとって一番受け入れがたい己の意識の象徴としてあるのではないか、というふうに思い至りました。もちろん心理学的にもっと深い意味はあるのでしょうけれど、とりあえずはこのあたりで留めておきます。

 「思い出さずや」は相手の心を掴むための方便としての枕詞としても、一瞬たりとも「忘れねば」ということは、人の意識の流れとしてはあり得ないのではないか、と、そんなふうに考えるのです。       

  

 人の意識の流れは「時間(時)」ということに深い関わりをもつので時計草の写真を。

 やっと時計草が咲きました。薔薇が枯れてしまったので昨年植えたものです。今年、茎はたくさん出ましたが、なかなか花が咲きませんでした。時計草は短日開花性で、日が短くならないと咲かないのだそうです。うちはすぐ近くにテニスコートがあり、夜間照明が明るいので、短日ではなく、日は長いままと理解したらしい時計草は、葉を茂らせるばかりでしたが、数日前、台風のなかで、照明の光から一番遠くにある一部の枝に数輪花をつけてくれました。本当に嬉しかったです。


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コメント

いさな さんのコメント…
確かに、一時的に、いえ一瞬でも忘れることが許されているから、人は生きていけるのかもしれませんね。
そうでなければ、拉致された人の家族、特にご両親は…と思いました。

紛らすということの大切さも思いました。
再び深く思うために、一瞬、他のことに意識が向かうのを許されるのかも、と。

時計草の花を久しぶりに見せて頂きました。日が短くなるのを見計らって咲く花だとは知りませんでした。
小倉の官舎を囲う金網に咲いていました。心惹かれる時計草の花です。
M.Nakano さんの投稿…
 いさなさん、素敵なコメントありがとうございました。

おっしゃる通り、

 大切な人や大切なことは、再び深く思うために、
 つらいことは少しだけ心を休めるために、

人の意識は時として他に向かうのかもしれません。

 それが、また明日を生きてゆく力にもなるのでしょうね。

 時計草が咲いているお宅に住まわれたことがあるのですね。大好きな花で、とある道端で見かけてから、いつかは咲かせてみたいと思っていたのでした。やっと願いが叶ったのですが、夜間照明のおかげで、咲き加減も中ぐらいところか、4/1くらいなのが残念です。

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