68 鳴門にて1

鳴門にて1 
 3月に徳島に行きました。三度目ですので、これまで行ったことのない鳴門を中心に見ました。いつも通り、ご報告は大幅に遅めです。ごめんなさい。

 あまり興味はなかったのですが、行った人にすばらしいと薦められたので、一回は見てみようと、世界の名画を陶板画にしたという大塚国際美術館に。美術館を設立した大塚製薬の鳴門工場は紀伊水道に面していて白砂の海岸が続いていて、それを使ってタイルを作る「大塚オーミ陶業」を工場内に作ったが、石油ショックで石油が高騰し、経営が立ちゆかなくなり、大型の美術陶板を作るという方向に向かっていった、という話です。世界に例のない陶板画美術館の陶板が、鳴門の白砂で作られているというのは、ちょっと感動しました。まさに地元のものを使っているのですね。設立の苦労話などは、美術館のHPにありますので、興味がある方はどうぞ御覧下さい。
 
 徳島バスの鳴門公園行きに乗って、大塚国際美術館前到着。入り口で3300円という高い入館料を払って(箱根の岡田美術館の2800円より高い!)、エスカレーターを上ると地下三階です。ここから地上二階まで五階建ての建物ですが、国立公園内にあるため(高さ13メートル、面積も限られているという制限あり)、外からみると二階建てにしかみえない、ほとんどが山の中に作られた建物なのです。地下三階の正面がシスティーナ礼拝堂の入り口になっています。実物大の陶版画による複製で、システィーナ礼拝堂が復元されています。すぐ左にはスクロヴェーニ大聖堂も。ゴッホにフェルメール、マネ、レンブラント、ムンクなどなど日本人好みの有名どころがずらりと並んでいて(とても書き切れません)、確かにこれらの実物を全部見るのは大変、よく集めたものだ、と感心しました。

 といっても、実物を見たものについては、やはり本物の迫力は違うなあと思ってしまいます。フェルメールのように、対象がはっきり描かれているものはわりによいのですが、エルグレコなどの質感は出せないという印象を受けました。
 けれど、世界中の全部を見て回るのは不可能だし、本物だって、いつか天災や戦争で失われることもありましょうし、経年による劣化もありますから、このような形で、ある時点のものを残しておくことは意義のある仕事だと思います(陶板画は劣化しないのだそうです)。

  さて、実物と本物を比較したいところですが、本物は概ね撮影禁止のところが多く、撮影可のところは、人の山で撮影もままならない状況で、うまく撮れないという場合が多いのです。撮影できたとしても、手元に残るのは写真に過ぎませんし、大塚国際美術館でさほど混んでいない時にゆったりと撮影した写真をブログやインスタグラムに載せれば、あまり違いはわからないかもしれませんね。
   たとえば、オランダ、 ハーグのマウリッツハイス美術館のフェルメールは撮影禁止でしたから、大塚国際美術館にある陶板画のフェルメールオンパレードと本物の写真を比べることはできません。けれど、同じ時に行ったベルギーのアントワープのノートルダム教会(「ノートルダム」とはフランス語で直訳すると「私たちの女性」、つまり「聖母マリア」のこと)にあるルーヴェンスの絵があります。「キリストの昇架」と「キリストの降架」がセットになっていて、中央に「マリアの被昇天」(それでノートルダム、つまりマリア教会)が描かれています。イギリスの作家ウィーダが19世紀に書いた児童文学「フランダースの犬」の最後の場面は、画家を目指す貧しい少年ネロ(私が読んだのは「ネルロ」とあった記憶が。こちらの方が語感がよいような気がします。「Nello」はイタリア語読みするならむしろ「ネッロ」が正しいらしいのですが、邦訳にこの名はありません。)が、たて続けに襲ってきた不幸に打ちひしがれ、極寒の吹雪の中、最後の力を振り絞って、見たいと思い続けていたルーベンスの絵の前にやってくる、クリスマスイブの夜だったので、いつもは絵を覆っているカーテンが開かれていて、彼は、月明かりに照らされた絵をようやく見ることができましたが、駆けつけたパトラッシュを抱いて息を引き取ってしまう、けれど天使が現れて昇天するという物語となっています。私が読んだのは、ネロが助けたる老犬パトラッシュが何度も飛び上がって覆われた布をはずそうとする、布がはずれて画面が現れ、それを見ながらネロは死んだという、パトラッシュの健気さが強調される内容で、子供の頃読んで大泣きした記憶がありますが、脚色されたものだったようです。当時、庶民でも教会に入って、正面の「マリアの被昇天」は無料で見ることができたましたけれど、両側の二つは観覧料が高くて見ることはできなかったため、ネロは観ることができなかった。今の私たちは、本物をじっくり眺めることができます。
 

           キリストの昇架(アントワープ、ノートルダム寺院
           1999/8/1撮影)

           キリストの昇架(大塚国際美術館 2023/3/29撮影)

 大塚の撮影は、光の反射がないように撮るのが難しくて、上の方が切れています。それでも二カ所テカっていますが、絵の内容は、暗く写っている本物より格段にわかりやすいです。アントワープのも右に光りが入り、左は暗くてみえません。インスタ映えしない写真ばかりでごめんなさい。ただ、大塚は絵だけですが、本物の方は、周囲の建物が映っているので臨場感があり、荘厳な雰囲気があるような気がします。検索して、最近の写真をみると、アントワープのノートルダム教会で、この絵は下の見えやすいところに置いてあるようです。「フランダースの犬」は日本人に人気があって、現地の人は知らなかったようで、私が行った時は特に何もありませんでしたが、最近は日本人観光客目当てにいろいろな工夫がされているという話ですので、絵の場所も変わったのかなと思われます。「フランダースの犬」では、この絵は高いところにあるという印象を受ける(作者も実際に見に行ってから書いた話 なので)のですが、かなり時が立ってしまったので、はっきりした記憶はありません。写真もこれ一枚だけしかないのですが、少し高い位置にあるような気がします。
 大塚では、もちろん「フランダースの犬」の解説とともにこの絵があります。

  バチカンのシスティーナ礼拝堂、イタリアのパドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂にも行ったことがあります。実物は本当にすばらしかったですが、入場制限で何分も待たされ、決まった人数しか入れず、撮影不可でした。システィーナは、庭にあった解説の絵しか撮影できませんでしたし、スクロヴェーニも撮影不可でしたので、売店で買った写真集しか持っていません。けれどシスティーナ礼拝堂以外、バチカン宮殿(サン・ピエトロ大聖堂に隣接する、ローマ教皇の住居です)内は撮影可でしたので、いくつかの写真を撮ることができました。
 なかでも、ルネッサンスの最高傑作の一つといわれ、私の大好きな「アテネの学堂(Scuola di Atene)」は、大塚国際美術館にもあったので、並べて比べることができます。といっても、まだブログなども初めていない頃、行き当たりばったりで撮った写真なので、あまりたいしたものではありません。興味がある方は、ちゃんとした写真がたくさんありますので、検索して全体像を御覧下さいね。

   

   こちらが大塚国際美術館のもの。なんか真ん中より上と縦に線が入っています。私の腕が悪いせいか、陶板画のつなぎ部分なのかは不明ですが、大塚もどんどん新しい陶板画が追加され、色も技術も上がっているようですので、これはまだ初期に作られたものだったのかもしれません。
  
   

 こちらがバチカン宮殿のラファエロの間で撮ったもの(2014/8/27撮影)。画面の色彩が明るいですね。うーん、本物とはいえ、誰かのスマホと手が写ってしまっています。この部分をカットすると絵が損なわれますし、色が一番鮮やなので、これにしておきます。
 
    「アテネの学堂(Scuola di Atene)」は、バチカン宮殿の「ラファエロの間」という四つの部屋のなかで、「署名の間」と呼ばれる天井に描かれたフレスコ画で、「神学・哲学・詩学・法学」の擬人像が描かれているものの一つ(「アテネの学堂」は哲学の擬人像)です。「署名の間」は、ローマ教皇に許された特別の人しか入ることのできなかった部屋ですから、もちろん普通の人は入ることができず、この絵も誰もが見ることができるようなものではなかったのです。それはシスティーナでもスクロヴェーニでも同じではなかったでしょうか。特権階級のなかでもごく一部の人しか見ることができなかったすばらしい美術品を、今は単なる庶民が入場料さえ払えば見ることができるという、ありがたい世の中になったことは感謝しなければいけません。
  中央の向かって左側の人物はプラトンで、手には自著『ティマイオス(人物名なので訳せない。プラトンの哲学を理論的、物語的に展開させた壮大な思想書)』を持ち、人差し指を天に向けています。抽象的、理論的であったプラトンの哲学は、真実はイデアの中にあるとしているので、指が天を指さしている。レオナルド・ダ・ヴィンチがモデルなのだそうです。よく似ていますね。右側の人物はアリストテレスで、自著『エティカ(倫理学)』を手にし、右の掌を下に向けています。彼の哲学は、現実的、経験を重んじるので、真実は現実の世界に存在するとして指は下を向いているのです。
  プラトンはアリストテレスの師、二人は師弟関係にあります。プラトンの師がソクラテス、プラトンから左に数えて数人目の、モスグリーンのような服を着て横を向いているのがソクラテス、彼と向き合って議論している、鎧兜を身につけた人物がアレクサンダー大王だと言われています。このように「アテネの学堂」は、古今東西の時空を越えた知の巨人たちを一つの画面の中に封じ込めているのです。
 またルネサンス時代に切り開かれた遠近法によって、プラトンとアリストテレスの背後に焦点が絞られる白亜の建物の向こうには美しい青空が広がっていて、知というものは、広々とした空に向かって開かれているものだといっているようです。ここが非常に素敵だと個人的には思っています。
 
  他も多くは古代の賢者たち、ユークリッド(ユーグリッド幾何学)、天文学者でもあり神秘主義者でもあるゾロアスター、天動説を唱えたプトレマイオス、中学校で習った三平方の定理で有名なピタゴラスもいます。中央の階段の前ででひねくれたように頬杖をついて座っているのは、ミケランジェロをモデルにした哲学者ヘラクレイトスなのだそうです。人物については、ラファエロの解説もないために、諸説あって定まりませんが、概ね定説とされているものをあげました。
 作者ラファエロ自身も、古代ギリシャの画家アペレスに扮して登場しているといいますが、大塚の写真は切れてしまっていますし、下のものもあまりはっきりしませんので、もう一つ広い画面のものを載せておきます。
 いかにも現場写真らしくて恐縮(観光客とカメラだらけですが、ちょっと祝祭的雰囲気かも)ですが、向かって右の端に、小さな黒い帽子、黒い服でこちらを見ている人物が、小さく描かれています。これが作者のラファエロです。



   渦潮の話は次の「鳴門にて2」で。

    
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  69 鳴門にて2   

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コメント

御輿 さんのコメント…
お久しぶりです。多分私も以前大塚国際美術館をおススメした一人ではないかと思います。私は、コロナ以前でしたから今よりずっと若い頃笑、淡路島と一緒に探訪しました。以来淡路人形浄瑠璃は、リピーターもやりました。
大塚国際美術館は、その創業者に興味があり、何せ、50年近く前のOL時代に、同僚の一人が大塚食品と取引があり、年に何回か四国へ出張していて、その社長の発想の豊かさ、大物ぶりを又聞きしていたことにあります。実際大塚国際美術館は今回の現場レポートの通り、百聞は一見に如かずでした。未踏の方には改めておススメしたい所です。
コロナで誰もが四年近くの遠出のブランクを強いられました。高齢者にはこの期間の体力、気力の低下は顕著のように思います。諦めることが普通になってしまったようで、これを元の水準まで戻すのは厄介かもしれません。
でも、思い立ったら実行あるのみです。「今」行かないと後悔するかも。行きたいと思っている所には、行くべきだと、最近しみじみ思うようになりました。
M.Nakano さんの投稿…
御輿さん

いつもコメントありがとうございます。御輿さんは大塚食品の初代社長のことをご存じだったのですね。すごい。

 御輿さんのようにエネルギッシュではなく、昨年は病気もしてしまったので「行きたいと思っている所にゆくべき」だとは思うのですが、、海外はまだその気になれずにおります。ただ、少しずつ国内旅行は初めてみようかと思っています。

付:読んで下さった皆様にも 

 なんか、「『百人一首一夕話』ーときどき旅」ではなくて、「旅ーごくまれに『百人一首一夕話』」と改題せねばならぬ状況になっております。講義でお話したものはたくさんありますのに、まとまった時間がとれず、なかなか文章にできずにおります。

 気長におつき合いいただければ幸いです。
木の葉 さんのコメント…
大塚国際美術館はいつか行ってみたいと思っていました。中野先生は本物を見ていらっしゃるので、本物に如くはなし、といったところでしょうか。ゴッホやムンク辺りはスルーする視点もさすが堂に入っていると感心しました。私は15年前の大英博物館しか知らないのですが、入場料無料、休館日なしに感激!文化を大切にする懐の深さがあります。
現在日本の教育は芸術軽視です。芸術科の専任教員は中々採用されません。せめて大塚国際美術館に修学旅行で若者を連れて行ってほしいです。
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん

 コメント有り難うございます。

 そう、大英博物館は無料ですね。陳列品も、ロゼッタ石とか、エジプト、ギリシアの超一等品が並べられていて。ただ、入館料無料はいいけれど、これらはどういう経緯でここにあるのだろうという疑問も湧きました。

 日本が芸術軽視(文学も含めて)というのはおっしゃる通りです。欧米は芸術や文化を大切にして、たくさんの予算をつぎこむという話を聞いたことがあります。

 それにしても、世の中が大きく変わっていますね。

 先日、孫の入学式に出たのですが、校長先生のお話とPTA会長のお話がハウツーもの的でびっくりしました。来賓はお辞儀だけで挨拶なし、30分で終わりました。「挨拶はきちんとしましょう」など、とてもわかりやすいですけれど、精神論のようなものはありません。一年生だからかもしれませんが、私たちの時代とはずいぶん違うな、と。昔の先生方のお話は退屈なものもありましたが、どこかで、深くものを考えることは大事だという精神があったような気がします。これでよいと思う子たちにはいいのでしょうけれど、それ以外のものがあるのではないか、と思う子供たちはどうしたらよいのだろうと考えたり。杞憂であってくれればよいのですが。

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