69 鳴門にて2

鳴門にて2   

  大塚国際美術館から約30分くらいかけて、鳴門公園まで歩きました。坂道は結構きつかったです。鳴門公園までは、大塚国際美術館の一階(?)から近道があり、顔認証で出入りできる門がありましたが、現在は通行禁止になっています(起伏の多い山道でまむしも出るらしいので、通行できないようです)。

  鳴門大橋の下に「渦のみち」という歩行路があって、入場料を払って入ると渦潮の近くまで行くことができます。満潮か干潮の前後1時間くらいが見学に適した時期というのですが、その日は小潮で、ちょっとした渦を見ることができただけでした。この年になって初めて見た渦潮、大潮の時に再訪できるかどうか、わかりませんけれど。行くのなら、きちんと調べてゆくべきでした。

       

   

                            



 渦潮のまわりには観潮船が出ていましたが、渦潮は鳴門公園から見ることができるのです。特にお茶園展望台は、殿様が渦潮を見るための場所だそうですから、それで十分かも、と思いました。 



 

  こちらが解説ボランティアの方が下さった絵はがき、大潮の時の写真です。さすが、なかなかの迫力です。

 渦潮をみると、エドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩の筆名はこれをヒントにした。長期連載漫画「名探偵コナン」の主人公江戸川コナン君〈本当は高校生探偵工藤新一が、黒の組織によって小学生に変身させられるという設定は、昔から好まれてきた貴種流離譚のバリエーションともいえますから、人気があるのでしょうね〉の名は、ですから、エドガー・アラン・ポーにヒントを得た江戸川乱歩が姓で、コナンは、もちろん「シャーロック・ホームズ」の作者アーサー・コナン・ドイルの名前からとっています。)の『メールシュトロームの渦』(邦題はいくつかのバリエーションがあります)を思い出します。彼は渦に巻き込まれながら、細かな観察をして、三つのことに気づきます。物体が大きければ大きいほど下へ降りる速さが速いこと、同じ大きさでも、球形のものとその他の形のものとでは、球形のものが下降する速度が速いこと、その他のものと比べて、円筒形が渦巻の吸引力に強く抵抗し、ずっと遅く吸いこまれてゆくということ、そこで男は、体を繩で水樽に縛り付けて、舟を捨てて、樽と一緒に海へ飛び込むことで九死に一生を得て、生還したのでした。印象的だったのは、一晩で髪の毛が全て白髪となった、ということです。中学生くらいの時だったので、人は大変な経験をすると一晩で白髪になるのか、と驚いたことを思い出しました。まあ、こんな小潮の時は大丈夫でしょうね。

 このお話の翻訳はいくつもあって、『エドガー・アラン・ポー選集』にも入っていますが、森鴎外(森林太郎の名で)が『うずしほ』という題で訳したものがありますので、興味がある方は青空文庫(底本:『鴎外選集 第15巻』岩波書店)で御覧下さい。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000094/card2075.html

  


  さてこれは渦潮ではなくて、鳴門の宿のプールの朝の光景です。エッジレスプールとかインフィニティプールといって、海との境目がないように見える設計になっています。夏は子供たちで一杯なのでしょうけれど、今は誰もいません。

 これでも十分きれいなのですが、昨夜の夕暮れの凪の時間は、言葉では言い表せないほど美しい光景でした。その時はカメラを忘れていたので、写真がなく、お見せすることができないのです。カメラを忘れるという、私のつまらない、うっかりミスの結果、こんな普通の写真しかお見せできなくなってしまいました。すみません(私のスマホでは、どれほど、その神のような景色をお伝えできたかはわからないのはありますが)。

 三月に、たまたま他の用事で開いてみた母校の同窓会のHPで、同窓会長が書いた、卒業生に贈るメッセージが目に留まりました。彼女は、私と同じ専攻(といっても彼女は国語学)の、一年先輩なのでよく知っています。母校の教授となり、今は同窓会長です。

 若き後輩への思いにあふれたよい文章の最後に、自分の近況報告のような形で、 

  かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ

という歌を引用していました。偶然見かけた上皇后美智子さまの御歌、その中に入り込んでぼーっとしていることが多い、というのです。

 母校の大学教授となり、家庭も子供も立派に両立してきた彼女に、他の道を思うことなどあるのか、と驚きましたが、こうして改めて目にすると、上皇后様の御歌の持つ深い真実の力に圧倒される思いがします。

  上皇后様の御歌を取り上げるのは恐れ多いと思う世代なのですが、一つだけ余計な講釈を加えさせて頂きますと、「分去れ」というのは、道が左右に分かれるところ。分かれ道。追分、辻といった意味で、 山形県東置賜郡・西置賜郡/ 福島県南会津郡/ 東京都南多摩郡 「誰さんのわかされ」/ 新潟県/ 佐渡/ 山梨県南巨摩郡/ 長野県佐久/ 山口県 / 熊本県/ 大分県/ 宮崎県西諸県郡/ 西臼杵郡/ 鹿児島県/ 種子島  などに見られる方言なのだそうですが、「追分」などよりもはるかに、別れ去って再び戻らないもう一つの道という意味が、くっきりと立ち上がってくる見事なことばを選んでいらっしゃいます。

 これくらいの年になれば、いえ、そこまでゆかなくても、皆、いくつかの人生の岐路は経験しています。これから先にもあるかもしれません。現在は、もう後戻りできないのですが、ふと、あの時もう一つの道を選んでいたらどうなったろうという思いを抱くことは、誰しもあるのではないでしょうか。 

   自分が選ばなかったもう一つの道は、無くなってしまうのではなくて、実は存在している、その世界に行って、これまでとは違う生き方を体験するというのは、文学でもよく取り上げられるテーマですし、SFなどにも結構あるような気がします。たとえば、いくつものポケット宇宙があって、そこには自分が選ばなかった、たくさんのモノやコトが、数知れず浮かんでいる、あるとき、ふっとそのなかの一つに入り込んでしまって、物語が始まるというような設定のお話があったような記憶があります。村上春樹の最新作『街とその不確かな壁』も、彼の得意な、異世界へ赴き、戻ってくる、パラレル・ワールド的構造の物語のようですね。

 選ばなかった過去は、もしかしたら、パラレル・ワールドとして自分の周りに存在しているのかもしれませんが、物語のようにそこを往還することはできません。我々は、概ね、日々小さな選択を、時には大きな選択をくり返した結果の累積として今の自分があることを認めるしかありません。

 インフィニティプールの夕景を撮ることはできませんでしたけれど、この写真にある朝の風景も、平凡だけれど、まあそう悪くないようにも思ったのでした。


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68 鳴門にて1

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コメント

御輿 さんのコメント…
鳴門の渦潮から、文学、哲学的分野にも至る深いお話でした。いつも新しい気付きを与えていただきありがとうございます。
昭和の終わり頃、連れ合いの転勤で四国松山に四年ほど住んでいたことがあります。まだ瀬戸大橋やその他の本州との橋も建設中で、ようやく竣工を迎えた頃でした。子育て中の忙しさの記憶ばかりですが、渦潮も見に行き、かなり大きな渦を見たようにも思いますが、別の動画の画像のイメージが残っているだけかも?
エドガー・アラン・ポー、森林太郎訳の『うずしほ』、未読でした。青空文庫に早速ダウンロードして読みました。一夜で、とても怖い思いをしたり、ショックなことがあると黒髪が白髪になる、という話は、何故か子供の頃から知っていたのですが、出典はここだったのでしょうか?
分去れ(わかされ)は、スマホで検索すればすぐ出てくるのに、電子辞書の日国大では見当たらず、広辞苑では「別され」(九州地方で)分家。わかれ。と出ているだけでした。
上皇后陛下の御歌が素晴らしいですね。実際あのとき、もう一つの道を選択したら、今の自分ではない自分がいるのでしょうから、人生は不思議で面白いと改めて考えさせられた次第です。
M.Nakano さんの投稿…
御輿さん

 いつも丁寧なコメントをくださいまして、誠にありがとうございました。ご自身が四国にいらした時の体験談も興味深く拝見しました。

 一晩で黒髪が白髪になるという話の出典をきちんと調べたことはないのですが、森鴎外が訳していますから、これがかなり古いものであることは確かです。日本の古典文学にはあるかどうかわかりませんが、欧米文学的な発想だとすると、翻訳文学が出典である可能性が高いですね。

 電子辞書に入っているのは、『日本国語大辞典』精選版です。もとの『日本国語大辞典』第2版には、50万項目・100万用例が収録されているのに対し、『日国大』精選版は30万項目・30万用例と、項目は半分強、用例は3分の1になっています。とりあえず便利なのですが、きちんと探すには図書館で大きな『日国大』を引くか、ジャパンナレッジ(年間2万円前後)に入るしかないと思います。退職してしまったので、ジャパンナレッジが使えなくなり、先月、年間の個人契約をしました。大枚をはたいて、涙、涙でしたが、やはりとても便利で助かっています。
M.Nakano さんの投稿…
一夜にして白髪になるお話、今頃(2024・1・28)見つけましたので書いておきます。

『十訓抄』九-三 藤原顕光が小一条院の女御争いに敗れて、道長を恨み、一夜にして悪霊となり、ことごとく白髪となったというお話に、凌雲台に額を書くために上った葦誕が恐ろしさの余りに雪の頭と変じてしまった逸話を引いています。これは中国『世説新語』巧芸編(10-77)にある話だそうです。

 貧しさの余り燭台を盗む『レ・ミゼラブル』のジャンバルジャンのお話も、中国の大食肥満であった張斎賢の逸話に、似たようなお話があったことに最近気がつきましたので、なんか中国の歴史は奥が深いというか、逸話の宝庫だなあと改めて思った次第です。

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