79 クッキング・エンペラー 15 光孝天皇 『百人一首一夕話』の挿画解説

 クッキング・エンペラー 15 光孝天皇 『百人一首一夕話』の挿画解説



巻之二 三十九裏 四十表

【翻字】

つれづれ草に云

黒戸(くろど)は小松帝(こまつのみかど)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて。昔(むかし)たゞ人(うど)にておはしましし時(とき)まさなごとせさせ給ひしを忘(わすれ)れ給はで。常(つね)にいとなませ給ひける間(ま)なり。みかま木(ぎ)にすゝけたれば。黒戸(くろど)といふとぞ云々。

 漢(かん)孝文帝(かうぶんてい)。嘗(かつ)て露台(ろたい)を作(つく)りなんとして。匠(たくみ)を召(めさ)れ。計(はか)り給ふに。其直(そのあたひ)百金(ひゃつきん)なりと。こは中人十家(ちゆうじんじつか)の産(さん)なりとて。其事(そのこと)をとゞまり給ふ。始(はじめ)文帝(ぶんてい)代王(たいわう)たりし時(とき)。呂氏(りよし)の乱(らん)に逢(あふ)て、平勃(へいぼつ)これを迎(むか)ふ。大位(たいゐ)に登(のぼ)りて、ますます節倹(せつけん)なり。光孝帝のかゝるわざをなし給ふも。其始(はじめ)を忘(わすれ)ざる節倹(せつけん)のみこころなるべし。


(凡例)

  ⑴ルビは()内に入れ、すべてひらがなとした。

  ⑵句読点、仮名遣い、送り仮名は原文のまま。くり返し符号は適宜読み易いように処理し  てある。

   ⑶改行は本文通りではなく、読み易いように改めた。

  ⑷漢字は可能な限り旧字体を新字体に改めた。誤字と思われるものがある場合、原文のままとして、 ※をつけ、【注】のところに正しいと考えられる字を記した。


【大意】

 『徒然草』に言う。「黒戸」は小松帝(光孝天皇)が即位されて、昔、臣下の親王でいらっしゃった時、料理などの戯れごとをなさったのをお忘れにならないで、いつも煮炊きなどをなさったお部屋である。御薪で黒く煤けているので、黒戸というとのことである云々。

   漢の孝文帝(漢の高祖劉邦の四男)は、かつて屋根のない高殿を作ろうとして、職人たちを召し、費用を見積もらせたところ、その値は百金であった。百金は中流の家十軒分の価格であるとして、建設することをお止めになった。

 初め、孝文帝が代国の王であった時、呂氏の乱にあって、呂氏を滅ぼした陳平・周勃らが孝文帝を帝として迎えた。(孝文帝は)帝の位に上ってからもますます、節約・倹約に努めた。光孝帝がこうした(料理のようなこと)をなされたのも、臣下でいらっしゃった、始めの時代を忘れないお心であったからに違いない。

【注・語釈】

 徒然草 鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて成立した随筆集。兼好(けんこう、俗名卜部兼好)著。上下二巻。北村季吟の『徒然草文段抄』以後、序段以下二百四十三段に章段を分けて記すようになった。仏書、儒書、漢詩文から、わが国の詩歌、物語、日記、説話、軍記、文学論、法語などに至るさまざまな先行書に触発されつつ、「世俗」、「仏道」、「遁世」という三つの世界を描き出し、無常観に根ざす鋭い人生観、世相観、美意識を特長する。おおむね短文ながら含蓄ある名文として知られ、「枕草子」とともに古典随筆の双璧とされる。

黒戸  清涼殿の一間。萩の戸の北、北庇から弘徽殿にいたる廊の西にあたって、黒戸という戸があり、この北廊を「黒戸の御所」「黒戸」という。光孝天皇の時にはじめて開かれ、「上の御局」であったという(『大内裏考証』巻十一上)。「黒戸」が煮炊きの薪で煤けたために黒くなっているという説明は、管見では『徒然草』のこの記述しか見出せなかった。

 『枕草子』に「頭の中将の黒戸の前などわたるにも、声などのする折は、袖をふたぎてつゆ見おこせず」という例があり、平安中期にも「黒戸」があったことが知られる。

たゞ人  天皇や皇族に対して、臣下の人。ここでは、親王であったことをいう。

まさな事 戯れごと。たわいもないこと。児戯。ここでは料理のこと。

みかま木(御薪、御竈木)令制で、毎年正月一五日に、燃料として百官が宮中に献上する薪。ここでは光孝天皇が料理をするために使う薪のこと、帝が用いるの「御」をつけた。

孝文帝 前漢の第五代皇帝、劉恒(りゅうこう)(前203年ー前157年7月6日)。在位期間(前180年11月14日 - 前157年7月6日)。諡号 孝文皇帝(文帝)。漢の高祖劉邦の四男(庶子)。中国史上、名君の一人とされ、後の歴史家が時代を批評する際、贅沢をせず、節倹を旨とした帝の例として引かれる。日本の文献では『今鏡』に引かれている。

露台  屋根のない高い建物。現代では、バルコニーの訳語としても用いる。

匠  工匠。古くは、木工職人をさしていった。

 ねだん。価値。=値

中人  中産階級。

代王 代国の王であった劉恒。後の文帝。

呂氏の乱  前180年、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の皇后呂后(りょこう)の死後、政治を独占していた呂氏一族を、劉氏一族と陳平・周勃(しゅうぼつ)らが協力して滅ぼした事件。この後、代王劉恒 (高祖の次男)が迎えられて即位、文帝である。

平勃   呂氏一族を滅ぼした陳平と周勃(しゅうぼつ)のこと。

節倹    出費を少なくして質素にすること。節約すること。また、そのさま。

【解説など】

  光孝天皇の『百人一首』の歌は、

 君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ

  (あなたのために春の野に出て若菜を摘む私の袖に、しきりに雪が降りかかっています。)

 です。 学生に『百人一首』の好きな歌は?と聞くと、この歌が一番になることが多いです。わかりやすくて、なんとなく早春の美しさが感じられる歌だからでしょうか。

  一夕話の画像は、光孝天皇が、小太刀のようなもので丸い素材を切って、まさなごと(お料理)をしているところですね。光孝天皇が料理をしたというのは、『徒然草』にしか書かれていないのですが、この記事のおかげで、『百人一首』のこの歌、なぜ天皇(『古今集』の詞書によれば、親王時代)が、雪がちらつく寒い中、若菜を摘んでいたのかが、分かるような気がします。誰だかわからない相手に、若菜をあげるためというよりは、自分で若菜のおすましを作って、この歌を添えてあげたと考えると、情景が目に浮かびやすいのではないでしょうか。 イクメンならぬ、クックメン、いや帝なので、クッキングエンペラーとでも呼ぶべきかもしれません。

 一夕話は、光孝天皇が自ら料理を作るということが、質素倹約に努めた紀元前の中国の名帝と重ねられるとするのです。若い頃苦労したために民の心がよくわかり、節倹に努め、善政を行ったことで知られる前漢の孝文帝という帝の故事を引くことによって、光孝天皇も、そのようなすぐれた帝であったと言いたいのでしょう。光孝の「孝」と孝文帝の「孝」が重なることも、孝文帝を引いた原因の一つかもしれません。陽成天皇の突然の退位後、傍系であり、五十八歳という高齢であったにも拘わらず、藤原基経の強い「推し」によって、帝の位に即いた光孝天皇には、幼い時、将来帝になる相であると渤海使に言われたいう、光源氏の人相見の逸話の元となるようなお話(『日本三代実録』光孝即位前紀)もあります。以後宇多、醍醐と続く、平安時代の天皇の新たな系譜の主流の源となった光孝天皇は、後代さまざまな伝説によってまつり上げられてゆくのですが、一夕話は、お料理好きであった(帝の遊びごとが、節倹に努めたことになるかどうか、いささか疑問ですが)という逸話をもってくるのが面白いですね。

 光孝天皇の『百人一首』歌は、『百人一首』の最初の歌、

     秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ

     (秋の田の番をするために建てた仮の小屋にいると、その屋根を葺いた苫の目が粗いので、そこから漏れる露で、私の袖はしとどに濡れている。)

 という天智天皇の作と、第三句「わが衣手は」が同じになっています。「百人一首かるた」でも、次の「露にぬれつつ」の「つ」と、「雪は降りつつ」の「ゆ」を見分けねばならない、紛らわしい取り札です。

  平安時代の天皇の中興の祖となった光孝天皇の『百人一首』歌を、平安時代の天皇の祖とされる天智天皇(とされているものですが)の『百人一首』歌と似たところがあるものを選んだのは、定家の『百人一首』の編纂意識をうかがわせるものであるのかもしれません。

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コメント

木の葉 さんのコメント…
タイトルが面白い!=お料理天皇。でも漢の孝文帝と類似の表現。兼好の創作とも言えないのですね。たかが歌、されど歌。定家の選の意図にまで言及され昔の知識人たちの高邁な精神世界が感じられて、読み応えがありました。
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん、いつもコメントありがとうございます。前にやった講義なのですが、わかりやすくまとめるとなると、それなりに時間がかかってしまいます。ブログ自体、最近はさぼりがちで月に一回くらいしか更新できませんが、お付き合い下さって感謝です。

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