84 二泊三日の遠島ー八丈島 ( その2)

 二泊三日の遠島ー八丈島 ( その2)

 二日目に回ったところ。順不同で一部のみ。

裏見が滝。水はありませんでしたが、八丈島らしい植物がたくさんありました。

  

大坂トンネルから見た八丈富士(半分)と八丈小島。

黄八丈めゆ工房では黄八丈の工房見学、黄八丈のお財布や名刺入れを販売していました。「小石丸」の繭の展示も。竹久夢二の絵はカレンダーのようです。黄八丈を着た女性。



「黄八丈めゆ工房」の名前の由来となった
    山下めゆさん。
                          

  10時から樫立エリアの服部屋敷で、樫立手踊りと八条太鼓の実演がありました。

 プログラムを見ると、樫立手踊りは、次の12種類。(   )内は現在の県名。

  あいこ節(宮崎)、藤次郎甚句(栃木)、平潟節(茨城)、平潟くづし(千葉)、かんとう屋(神奈  川)、.伊勢音頭(三重)、とのさ(京都)、おけさ(新潟)、土佐くどき(高知)、やりくどき(鹿   児島)、好比〈よしこ〉の節(東京)、芸州節(広島)

 
  黄八丈を着て実演される「樫立手踊り」は、日本各地の歌や踊りを、島人が八丈島ならではの盆踊りにアレンジしたものだそうで、それらは、流人や、江戸と八丈を往復した御用船の乗組員だけでなく、漂着者(小川武「黒潮圏の八丈島」によれば,漂着船の船籍地は、大阪、摂津、紀州、尾張、薩 摩、江戸、土佐、石巻、松前など日本全土に及んでおり、琉球船や中国船も漂着したという記録が残っている、という)によっても伝えられたといわれます。こんなところにも、日本各地の文化や芸能が交じって残されている八丈島らしさが感じられます。

 続いてショメ節の実演がありました。七七七五調で即興で自由に唄うショメ節、お祝いの席ではみんなで順に歌ったのだそうです。

沖で見たときゃ  鬼島と見たが  来てみりゃ八丈は  情け島  (ショメ、ショメ)

大和おのこの  度胸があれば  超えておじゃれよ   黒瀬川  (ショメ、ショメ)

南風だよ  みな出ておじゃれ  迎えぞうりの  紅鼻緒  (ショメ、ショメ)

 ショメ節は、八丈島の歴史、人情や風俗、習慣などを踏まえて作られた古くからある歌のようですが、三番目は、1930年8月に八丈島を訪れた野口雨情の作詞なのだそうですが、みごとに島民の心情が歌い込まれているため、全く違和感がなく昔からこの島に歌い継がれて来たものと思ってしまいそうです。

 私が気になったのは、二番目の歌。

 大和おのこの度胸があれば越えておじゃれよ黒瀬川

 「黒瀬川」というのは黒潮。八丈島の近くには、航空写真でもひときわ波立っているのが認められる黒潮本流が川のように流れていて、航海を困難なものにしていたため,「鳥も通わぬ八丈島」といわれ、人々は隔離された生活を強いられ、隣の御藏島との交通さえ容易ではなかったのだそうです(ですから島抜けはもっと大変。一人だけ「黒瀬川」を渡り切って房総半島に辿り着いた男がいたとか)。この歌は、御藏島にいる男に向けて、大和男の度胸があれば、流れの速い黒潮を超えて私のところまでいらっしゃいなと島の女が誘う歌です。

  海を隔てた恋といえば、思い出されるのは『百人一首』の藤原定家の歌。

    来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ  
 (待てども来ない人を待って、松帆の浦の夕凪に焼く藻塩 のように、わが身はあの人に焦がれ続けているのです)

 定家が、来ない男を待つ女性の立場になって詠んだ歌。松帆の浦は淡路島にあり、やって来ない相手の男はどこにいるのかというと、この歌の本歌である『万葉集』(九三五・笠金村)にその場所が示されています。


 三年丙寅秋九月十五日幸於播磨國印南野時笠朝臣金村作歌一首并短歌

名寸隅の  舟瀬ゆ見ゆる  淡路島  松帆の浦に  朝なぎに  玉藻刈りつつ 夕なぎに  藻塩焼きつつ  海人娘女  ありとは聞けど  見に行かむ よしのなければ  ますらをの  心はなしに  たわや女の  思ひたわみて た廻り  我れをぞ恋ふる  舟楫をなみ

(現代語訳)

 神亀三年九月十五日、聖武天皇が播磨国の印南野に行幸された時に、笠朝臣金村が作った歌 一首と短歌

名寸隅の船泊から見える淡路島、その松帆の浦で、朝の凪には玉藻を刈り、夕の凪には藻塩を焼く海人少女がいると聞くが、逢いにゆく術がないので、一人前の男らしい分別もなく、か弱い女のように心もしおれ、未練がましく私は恋い慕っている。舟梶もないので。

 男は「名寸隅」にいるのです。「名寸隅」は、兵庫県明石市魚住町から兵庫県明石市大久保町江井島あたりまでの海岸をいい、淡路島の松帆の浦の対岸にあります(実際地図で確かめると少し斜めになっていて、北東方向)。その間にある明石海峡は、潮の流れの激しさから「瀬戸内の難所」と呼ばれ、海が荒れた時、舟は松帆の浦で帆待ちをしたのだそうです。本歌の『万葉集』では、男が女を恋うが、逢いに行けないと歌うのですが、定家の歌は逆に女の立場になって歌っています。『万葉集』の笠金村の歌が実際あった伝承をもとにしたものかどうかは不明ですし、金村の歌にある海人おとめの立場に立って、来ない男を待つ女の心を詠んだ定家の歌は全くのフィクションです。八丈島のショメ節も、実際にあった恋物語をもとにしたものかどうかはわかりません。けれど、八丈島の黒瀬川、松帆の浦と名寸隅を隔てる潮の流れが激しい明石海峡という海を隔てた男女の恋歌が、現代に伝えられているのはなかなか面白く、民俗学などでこうした型はあるのかな、と思わされたのでした。海は恋の成就の難しさの比喩なのかもしれませんが、実際の海である方がずっと想像力をかき立てられますね。

 (追記)2024年5月11日放送(NHK総合TV)の「新プロジェクトX〜挑戦者たち〜」は、「 世界最長 悲願のつり橋に挑む〜明石海峡大橋40年の闘い〜」、明石海峡大橋の架橋の物語でした。1957年、戦後の焼け野原から復興した神戸の市長、原口忠次郎氏が、神戸と淡路島に橋を架けるべきだという夢を語る話から始まり、さまざまな技術者の人生と架橋への情熱が描かれるなかなか見応えのある内容でした。原口氏は夢を語るだけでなく、蹴られても蹴られても国への陳情を続け、海外の最新のつり橋技術を翻訳し関係するメーカーに配り続けた「調査月報」という雑誌を発行し続けた実行の人でもありました。橋の着工をみずに亡くなった原口氏が、夢を現実とするための布石を着々と準備していたというところが印象的でしたし、吊り橋のケーブル4000メートルを無事渡しきった直後、阪神・淡路大震災が発生し、震源が淡路島側の橋の近くだったけれども、ケーブルを渡しておいたおかげで、主塔が傾いただけで決定的なダメージとはならず、復旧することができたというのも大変なお話だと思いました。中心となるのは、神戸製鋼の社員、ケーブル架橋の技術者穐山正幸さんでしたが、今回のブログと関係があるのは、ケーブル架設の現場監督を担当した古田富保さんの話。お父さんは神戸、お母さんは淡路島の生まれで、明石海峡に隔てられた恋を成就させるため苦労したことを聞かされて育ったというのです。ちょっとしたエピソードだったのですが、万葉集の昔ではなく、近い時代にも明石海峡を隔てた恋があって、それが実ったというのは、なかなか興味深いものがありました。

 二日目の最後は、末吉エリアの「みはらしの湯」へ。八丈島は温泉が豊富なのです。ツアーの方たちと一緒で混んでいましたが、その休憩所からは、海でザトウクジラたちが遊んでいるのを見ることができました。といっても遠いので、望遠レンズもないので写真はとれず、ブローといって、遠い海に時々噴水のように潮を吹いているのが見えるだけです。黒瀬川の流れに乗ってザトウクジラがいるのかしら、などと思いました。

  二日目は晴れていましたが、三日目は雨で風が強く、朝の便は欠航となりました。お魚が新鮮、野菜も地産地消、魅力的は常春の八丈島は、風速8メートル以上の南風が吹くと、飛行機が飛ぶことができないのです。私たちが乗る予定の昼の便は、ANAから「天候調査中」というメールが届き、運行決定の知らせはなかなかきませんでした。


 宿は10時までなので、空港に送ってもらいましたが、狭い空港ですることもないので、歴史民族資料館へ行くことに。電話してみると、受付の人に「歩いて!?」と絶句されました。徒歩で行くというのは全く考えていなかったらしく、空港からどれくらいかかりますかというと、10分、いや15分かなといいます。夫は歩くのが好きなので、気にせずに歩き出し、私は空港の下のトンネルをくぐってゆくのが大変そうなので挫折、空港に戻りました。戻ってからあれこれ聞いてみると、オンデマンドバスがあるとか。電話してみるとすぐにやってきてくれて、一人で貸し切り状態、途中、夫を探したのですが見つからず、私が先に着きました。

  八丈支庁の展示ホールにある八丈島歴史民俗資料館は、縄文土器から黄八丈の柄見本帳、織機、農耕具など民俗資料と、流人関係の資料が多く展示されています。流人関係の一部の写真はその1で掲載してました。

 




 

 帰りは、オンデマンドバスの予約が一杯なので歩くしかありません。40分はかかったでしょうか。片道で助かりました。




 空港食堂でランチをしながら、なかなか出ない運行決定の知らせを待ちます。着陸が難しく、それさえできれば、離陸は問題ないのだとか。定刻より10分遅れ、13時20分、皆がじっと見守るなか、ボーイング737は無事着陸、皆拍手で迎えました。

雨と強風のなか着陸した飛行機。

  八丈島は、飛行機が飛ばないために、2、3日延泊した人の話を聞いていたので、多少の覚悟はあったのですが、四泊、五泊とはならず、二泊三日の遠島ですみ、胸をなでおろしました。 本当のところ、もう一日くらいいたかったなと思わないでもありませんでしたけれど。


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関連記事 

83   二泊三日の遠島ー八丈島(その1) 

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コメント

木の葉 さんのコメント…
(その2)も読み応えがありました。樫立手踊り、ショメ節…各地の文化の融合を感じさせます。多文化共生の環境にあって、個々の存在を労りながら暮らした島人。寿命は短かっただろうけど、充実していたのかもしれません。海洋国の島文化をもっと本土にも伝えてほしい、と思いました。「遠島」が3日で収まって良かったー お疲れ様でした!
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん、いつも読んでくださって有り難うございます。ずいぶん遅くなってしまってごめんなさい。これからは、もう少し頑張って新しい記事を更新できるよう心掛けますので、これからもよろしくお願いします。

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