9 パンドラの箱に残された「希望」とは
パンドラの箱に残された「希望」とは
日本経済新聞の日曜日の朝刊の文化欄に坂井修一氏の「うたごころは科学する」という連載があり、毎週読んでいますが、今回(10月24日)は「希望という仕掛け」というタイトル、パンドラの箱に残された「希望」をテーマとするものでした。
ギリシア神話の中でも有名な逸話で、すべてのよいところを集めた最初の女性であるパンドラは、ゼウスが絶対にあけてはならないと命じた箱を、好奇心にかられて開けてしまう。見るな、開けるなといういわゆる「見るなの禁」は、逆に見たい、開けたいという感情を駆り立てます、つまりゼウスは、パンドラが開けることを見越してその箱を与えたのでしょうね。
近所の工事現場の戸口に、「入っちゃだめだよ」という子供向けのことばとともに、工事をするおじさんの絵が描かれているところがあって、なぜかその言い回しをみるたびに無性にその扉を開きたくなった経験があります。毎回なんとかその思いを抑えて事無きを得ましたから、パンドラよりは理性があったのかも?しれません。
さてパンドラが開けた箱からは、疫病、犯罪、嫉妬、怨恨、復讐など、ありとあらゆる災いが飛び出してきて、慌てたパンドラが箱を閉めた結果、箱の中には「希望」だけが残されたという結末でした。
この話を聞く度に、箱に入っていたのは、人類に災厄をもたらすあらゆる悪いもの、つまりマイナスのものであったはずなのに、なぜ「希望」というプラスのものが残されていたのかが不思議でなりませんでした。坂井さんは、この「希望」には二つの解釈があって、一つは「希望」をプラスの意味にとる普通の解釈ですが、もう一つは「人はどんなにひどい状態になっても〈希望〉があるためにこの世から立ち去ることはできない。不幸に耐え続けるために残された〈希望〉こそ、パンドラの箱の中でも最悪の災厄である」という解釈なのだと述べます。たしかに「希望」をそのように解釈すると、マイナスのものばかり入っていた箱の中にふさわしいものと見ることができ、長年の疑問が解けたような気がしました。坂井さんは、後者の解釈に軍配をあげているようで、「一つの種が生き残るためには一つ一つの個体がたくさんの苦難を引き受けて生きのびなければならず、そのために〈希望〉という仕掛けが用意されている」というのです。
確かにその通りだとは思います。希望は絶望と表裏一体のもの、しばしばかなえられぬことの方が多いものですが、パンドラの箱があらゆるマイナスの災厄を入れたものであるとしたら、そこには、希望ではなくて、絶望が入っていたはず、飛び出していった災厄が世界にばらまかれたけれど、パンドラがあわてて箱を閉めたために絶望は外にでてゆくことができず、人々は絶望の闇にとらわれ続けることなく、希望を持ち続けることができたと考えることもできるようにも思うのです。
最後に大好きな俊成の歌をあげます。彼は、この歌を自身のおもて歌(自讃歌)としませんでしたが、決して捉えることのできない本質的な美に対する夢や希望、憧れを持ち続けることをやめぬ、そんな人の心を詠んでいます。
面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲(新勅撰集・春上・五七)
カール・ブッセは山のあなたに幸福を探しに行き、「涙さしぐみ帰り来」たのですが、俊成は、戻ることなく求め続ける歌を詠んだのです。
Pandora's box Charles - Edward Perugini(1839 – 1918)
画像は「聖書と歴史の学習館」
https://www.lets-bible.com/fall/myth_g.phpより
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Pandora's box Charles - Edward Perugini(1839 – 1918)
画像は「聖書と歴史の学習館」
https://www.lets-bible.com/fall/myth_g.phpより
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