54 平安京憧憬ー中尊寺金色堂(1)ー

 

平安京憧憬ー中尊寺金色堂(1)ー

  9月29日(木)、30日(金)と平泉・一関に行きました。長くなってしまいそうなので、記事を分けて書くことにします(実はかなり前から下書きはできていたのですがなかなかまとまりませんでした)。

 平泉駅を降りるとすぐ、おしゃれなポストが目につきます。世界遺産平泉ポストと呼ばれているらしく、 町内七カ所にあるのだそうです。   

      

 

  ポストは、中尊寺の国宝 『紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)』を基調とした、紺色に、浄土に咲く宝相華唐草文(ほっそうげからくさもん)模様が浮き出すようなデザインです。裏には平泉の宝物に多く使われている孔雀が描かれているそうですが、狭いので写真をとりそびれました。


     『紺紙金銀字交書一切経』(『入楞伽経』)の写真はこちら(売店で購入した『世界遺産 中尊寺』という中尊寺の解説書によります。以下「図録」と略称)。   


  『紺紙金銀字交書一切経』(以下略して『金銀字一切経』とします)は、紺色の紙に銀泥で界線を引き、金字と銀字で1行ごとに経文を書いているもの、初代清衡公の発願によって、永久五年(1117)から8ヵ年を費やして完成したといいますから、平清盛の発願によって、平家一門の人々が一巻ずつ結縁書写して厳島神社に奉納した名高い装飾経である平家納経(長寛二〈1164〉年)に先立つものです。また現在五島美術館で開催されている「西行」展のトップには、平清盛の父忠盛の『紺紙金字阿弥陀経』が展示されています(前期と後期の後半のみ)が、これは重要文化財で国宝ではありません。ついでにいえば、五島美術館の後期展示(11月15日から)のトップは、なんと『平治物語絵巻 六波羅行幸巻』です!。つまり、現在東博の国宝展で展示されているものがこちらに移動するのですね。夏に都美術館で開催されたボストン美術館展では同じ『平治物語絵巻』の「三条殿夜討巻」が展示されていました。現在残されている『平治物語絵巻』はこの二つしかなかったのではないでしょうかと思っていたら、御輿さんからご指摘があり、静嘉堂文庫に「信西巻」があるそうです(コメント欄参照)が、まだ見たことがありません。『平治物語絵巻』は、源義朝が藤原信頼とともに、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、平治元(1159)年に起こした内乱を描いたものですから、清衡の孫である秀衡(金色堂に葬られている三代目)の時代のことになります。


 こちらは『維摩経』ですね。上が表紙で、宝相華唐草文様、つまりポストの色は少し鮮やかなブルーですが、この紺色と模様をもとにしていることがわかります。下は見返し絵と金銀字の経文ですが、先にあげた『入楞伽経』を比べると銀字の行は変色して見えにくくなっており、一 行おきに書かれているようにしかみえません。『維摩経』は人生を夢や幻や水の泡にたとえる無常の喩が登場することで知られますが、経典の中心的人物は維摩居士という古代インドの大富豪、 学識に富み、在家のまま菩薩の道を行じ、釈迦の弟子たちと仏教の真理について議論を戦わせて一杯食わせるてしまうなかなか食えない人物です。維摩の居室は方丈、鴨長明が『方丈記』で書いている住まいもその影響下にあります。

   ポストの話が長くなってしまいました。中尊寺の門をくぐると、月見坂という上り坂があって、その両側にけっこうたくさんの寺院があります。

  


 金色堂(7)の後ろに経蔵(8)がありました。写真を撮り忘れたので図録のものを。美しい紅葉です。私たちの時はまだ紅葉には早かったので、ちょっと時がずれていますが(^_^;)。     

 

 中尊寺の経蔵には、奥州藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)によって発願され書写された『金銀字一切経』、『金字一切経』、『金字法華経』が納められました。『金字一切経』は都でも皇族や上級貴族しか行うことのできなかった写経事業ですが、『金銀字一切経』にいたっては、慈覚大師の『入唐求法巡礼行記』に中国五台山に存在したと記されているのみで、国内では唯一のものなのだそうです。本来5300巻ほどあったこれらの経典は、桃山時代に山外に移動し、現在は15巻(国宝指定のもの)しか中尊寺に伝わっていないのだそうです。残りはどうなったかというと、小田原北条氏を降した豊臣秀吉が、ひき続き東北地方の仕置きをおこない、彼の命によって中尊寺の秘宝である『金銀字一切経』・『金字一切経』あわせて4,000巻以上が京都伏見に運び出され、それが現在「中尊寺経」として高野山や観心寺などに所蔵されているといいます(「図録」の説明による)。

 京都の博物館などで、平安時代の経典だと思ってみると「中尊寺経」であることが多いのは、そのためにわざわざ中尊寺から借用してきているのではなく、秀吉のおかげ(せい?)だったのですね。

 2023・3・27(火) 高野山霊峰宝館の絵はがきが出てきたので追加しておきます。

 



 全部で八枚の絵はがきです。『華厳経』がありますね。これも秀吉がもってきたもの?高野山には、国宝『金銀字一切経』として、あわせて4296巻が伝えられているとあります。

 中尊寺については、『吾妻鏡』 文治五年九月十七日の条に詳しいのですが、まず以下のような記述が目にとまります。

 寺塔四十餘宇、禪坊三百餘宇也。

 清衡、管領六郡之最初、草創之先自白河關、至于外濱廿餘箇日行程也其路一町別、立笠率都婆、其面圖繪金色阿弥陀像計當國中心、於山頂上、立一墓塔。

 中尊寺の堂塔は40余、禅坊は300余。清衡が奥六郡の管領を始めて最初に建てた寺で、白川の関(福島県白河市)から外の浜(青森市)まで、24日の行程であるが、その道に一町(約109m)ごとに、面に金色の阿弥陀像が描かれた笠塔婆を建て、国の中心を計り、その山の上に塔を建てた、とあるのです。

 なんかすごいですね。白河の関(福島県白河市)から外ヶ浜まで、24日間の行程、約500キロある街道の一町(109m)ごとに笠卒塔婆を建てる、割り算するとざっと4588個、それだけの笠卒塔婆を運んで建てるだけでも大変そうですが、その中心が中尊寺だということになるのでしょう。清衡の絶大な力を感じさせます。とりあえず図録の地図と奥州藤原氏の系図を載せます。

   


   あれこれ調べていると面白いサイトをみつけました。

       古代測量技術研究

     古代の測量技術の水準は高かったらしく、詳しくそのあたりのことが書かれています。

 外ヶ浜は、青森県外ヶ浜町、竜飛岬のある津軽半島の陸奥湾側、青函トンネルの入り口の手前にある町です。

  西行が第一回の奥州への旅(修行)を志して詠んだのが次の歌です。

  みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑外の浜風(山家集・一〇一一)

彼の想像力がまだ見ぬ奥州の最果ての地へと飛翔してゆくような感じがしますすね。外が浜は謡曲「善知鳥(うとう)」の舞台となる地でもあります。壺の碑は現在は宮城県多賀城にあるものをいいますが、江戸時代に混同されたものらしく、青森県説、岩手県説もあるようです。

 全くの余談ですが、連れ合いが青森に赴任していたとき、私も時々は青森を訪れたのですが、春先になると「トゲクリ蟹」というイガイガの蟹が市場に並びます。食べるところは少ないのですが、ふつうに蟹の味がしました。津軽出身の太宰治の好物で、小説『津軽』のなかに登場するそうなのですが、とにかく食べ物の少なくなる春先に、川にわらわらと姿を現すので、土地の人はそれを喜んだためか、「蟹田」という地名があるのですが、その蟹田は「外ヶ浜町」にあります。


 

写真は「あもり産品情報サイト 青森のうまいものたち」の「トゲクリガニ」

青森のうまいものたち

 


 中尊寺金色堂(2)に続きます。


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コメント

御輿 さんの投稿…
平泉の素敵なポストの写真に魅了されました。流石奥州藤原氏のお膝元ですね。
「平治物語絵巻」、東博で見てきたばかりで、昨夜五島美術館の今回の「西行」展の図録を見て、筆頭に同じ「六波羅行幸巻」の図版が出ていて、びっくりして展示リストを見直して納得した次第でした。東博では明日まで、五島では、後期の11月15日から27日までの展示です。それでその図録の解説に、「平治物語絵巻」には、もう一つ静嘉堂文庫美術館蔵の「信西巻」(重文)があると書かれていましたので、現存は三巻らしいです。
静嘉堂文庫美術館も世田谷区岡本からお引越しをして、10月1日から静嘉堂@丸の内として開館し、現在静嘉堂創設130周年、新美術館開館記念展を開催中です。残念ながら曜変天目と琳派中心で、「平治物語絵巻」は出ていないようです。
M.Nakano さんの投稿…
御輿さん、いつも参考になるコメントをありがとうございます。記事は訂正しておきました。

 世田谷区岡本の静嘉堂文庫の最後の展示に、御輿さんをはじめ皆さんとご一緒いたしましたね。黒一点の受講生だったSさんがOBとして参加して下さったことなど、ありがたいよい思い出です。

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