55 平安京憧憬ー中尊寺金色堂(2) しのぶもじずりー

平安京憧憬ー中尊寺金色堂(2)しのぶもじずりー

   奥州藤原氏四代約百年の間に、初代清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺、三代秀衡が無量光院を造立して仏教文化が花開きますが、金色堂のみが創建時の姿そのままに残されています。金色堂は清衡の発願によって天治元(1124)年建立されたものです。


 永承7(1052)年が末法元年、藤原頼通が父道長の宇治の別業を仏寺に改め、宇治平等院を開創した年から約70年後ですが、いずれも西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊としていることから、清衡は自身の極楽往生を願い、末法の世に極楽浄土を現前させようとする祈りのようなものがあったに違いありません。三代秀衡が造った無量光院はその地形も院内の荘厳もことごとく宇治の平等院を模したものなのだそうです(『吾妻鏡』同月二十三日、頼朝が巡礼)。無量光院は、現在は残されていませんが、奥州藤原氏が平泉の寺院建築において、いかに宇治の平等院を強く意識していたかをうかがうことができます。

 『吾妻鏡』によれば、文治五(1189)年閏四月三十日、頼朝の命に従った四代泰衡が衣河の館を取り囲み、持仏堂に入った義経を自刃させますが、頼朝はさらに奥州を攻め、同年九月三日、追い詰められた泰衡は、郎従である河田次郎によって首を獲られ、奥州藤原氏は滅亡したとあります。
 同月十日、中尊寺の経藏別当である心蓮は、頼朝の宿所に参上し、このままでは貴重な一切経が納められた、霊験あらたかな中尊寺が荒れ果ててしまうことを嘆きをもって訴え、頼朝が藤原三代が建立した寺塔のことを訪ねると、詳細は書面にしたためますと答えます。
 同月十七日、心連らが、約束の書面、藤原三代が造立した堂舎について記したものを献上すると、頼朝はたちまち信心の心を起こし、寺領はすべて寄付するから、祈祷に励むようにと庇護を約束したとあります。心連らが書いた書状には、中尊寺をはじめ、藤原三代が造立した堂舎がどんなものであったのかが説明されているのですが、それがまさに中尊寺についての一等資料なのです。長いので金色堂のところだけ引用します。
 
   次金色堂(上下四壁内殿、皆金色也。堂内搆三壇、悉螺鈿也。阿弥陀三尊、二天、六地藏、定朝造之)。

 次に金色堂(天井・床や四つの壁から内殿に至るまですべて金色。堂内は、三つの檀を設え、ことごとく螺鈿の装飾を施している。阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝が造ったもの)。      

 
 金色堂に祀られている阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作とありますが、定朝は、平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)を造った仏師です。といっても定朝が平泉に来たのではなく、奥州藤原氏の注文によって、京の定朝の工房で造られ、運ばれたものであると考えられます。続く毛越寺についての記述を読むと、それがよくわかります。毛越寺は、二代基衡が建立したものですが、基衡は仏師雲慶に見積もりを要請し、雲慶は上中下の三品の見本を送って寄こしたので、中品を依頼し、費用を仏師のもとに送った、その中には、円金が百両、鷲羽が百尻、 七間々中径の水豹(あざらし)の皮が六十余枚、安達絹が千疋、希婦細布(けふのさいふ)が二千端、糖部(ぬかのぶ)の駿馬が五十疋、白布が三千端、信夫毛地摺(しのぶもぢすり)が千端、この外に、山海の珍物を添えたというのです。

 「信夫毛地摺(しのぶもぢすり)」は、『百人一首』(14)にある河原左大臣の歌、

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

にありますが、実物(しかも「千端」も!)があったということになりますね。

 造営が終わるまで三年の間、京と平泉の間を往復する人夫や荷物で東山道、東海道は一時も切れ目がなかったというのです。平泉と京の都との交流は非常に活発であった、ということがわかり、西行が東大寺の大仏再興のために、再度平泉に勧進に行ったというのも、納得できることなのです。奥州藤原氏の平安京の高度な仏教文化への強い憧れ、それを単なる模倣ではなく平泉においてそっくりそのまま実現しようとする強い意志の力と、それを支える膨大な財力(衣川の砂金)を伺うことができます。

 金色堂の手前には、奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館「讃衡藏」が建てられていて、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の遺体の副葬品など、さまざまな宝物を見ることができます。

   金色堂の須弥壇に安置された奥州藤原氏四代の遺体(四代泰衡は首級のみ)は、昭和二十五(1950)年に行われた学術調査によって、棺内から多くの副葬品が発見されたそうですが、長年にわたる虫害、鼠害!によって破損が進んでいるものの、平安時代ならびに藤原氏の文化を知る上で貴重な資料となっているとのことです。つまり金色堂とは、奥州藤原氏の平安京への憧れが、悠久の時間を凍結させたまま、タイムカプセルのように残されているすぐれた文化遺産なのです。といっても錆びた刀などより、やはり心ひかれるのは工芸品です。
   写真は、仏前においてものなどを載せる台(机)である「螺鈿平塵案」(国宝)
  
   

 下方に向けてゆるい曲線を描く細い脚部に施された精巧な螺鈿細工は息を呑むほど美しいのです。
 『源氏物語』において藤壺宮によって行われる法華八講と出家が語られる賢木巻、紫上の法華八講が描かれる御法巻に出てくる「花机」とはこんなものであったのかしら、と思いました。

 こちらは金色堂の梁や長押に懸けられていた華鬘(国宝)。透かし彫の宝相華唐草文の中央に総角結びの紐を中心に向かい合う迦陵頻伽が配されている傑作です。 
     
 平安時代のものがこれだけきちんとした形で残されているのですから、国宝ばかりなのも宜なるかな、です。 

 二代基衡によって建立された毛越寺にも行きました。萩祭りの期間とありましたが、特にお祭りらしきイベントはなく赤と白の萩がきれいに植えられています。中尊寺とは異なり、こちらは平地で広々とした池があります。
  


 9月末だったので紅葉にはまだ早く青紅葉がきれいでした。

 お寺の本堂は再建されたもので、さほど古いものではありません。夕刻に近かったので、常行堂では若い僧侶が美しい旋律に乗せてお経を唱えていました。かつて夕暮れの三千院や、勝林院、来迎院など大原の寺寺で聞いた朗々と響く天台の声明の流れを汲むものなのでしょう。毛越寺は、延暦寺の第三世座主円仁が開山したと伝えられますが、円仁は、『入唐求法巡礼行記』の作者でもあり、音感にすぐれ、天台声明の元祖といわれる高僧です。
 京は、比叡山を除けば、鎌倉・室町時代に浄土宗や真宗あるいは禅宗に改宗された寺も多いですが、平泉のお寺は天台宗のままなのです。

 (『吾妻鏡』については『現代語訳吾妻鏡〈4〉奥州合戦』〈吉川弘文館 2008〉を参考にしました)。

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