86 浜名の橋 その2ー『百人一首一夕話』の挿画解説
浜名の橋 その2ー『百人一首一夕話』の挿画解説
2024.5.20撮影
遠江の国という名称は浜名湖によっていて、浜名湖は、京の都からみて遠いところにある淡水湖「遠つ淡海」だから「遠江」、近くにある淡水湖は「近つ淡海」、「近江」国にある琵琶湖です。浜名湖は、州によって海と隔てられた淡水湖であったようですが(浜名の橋は、淡水水から流れ出した川の上に架けられたもの)、明和大地震によって今切ができたことによって海水が流れ込む汽水湖となりました。
今切では舟が必要ですから、浜名と今切で二回舟に乗るというのは無駄、全て舟で渡る方がよいということになった、あるいは今切変遷図でみると、浜名の橋の部分は陸地になってしまったと思われ、ういずれにしても浜名の橋は要をなさなくなる、高いお金をかけて橋を作る必要が無くなったのでした。
そのために、頼朝などが泊まったことで知られた、浜名の橋のふもと付近にあった「橋本」宿はすたれ、かわりに橋が壊れて渡れない時(『更級日記』の記述)の舟着き場であったと思われる新居宿(『一夕話』では「荒井」宿)が発展し、江戸時代には関所が設けられ、現存する最古の関所として、復元整備され、現在は新居町の観光の目玉となっています。
5月20日、21日、講座の有志の方と浜名の橋と今切、花博を見る一泊二日のツアーを企画しました。ところが、私たちが行った20日は月曜日、月曜日は、湖西市の主な観光名所はほぼ全休で、新居関所も見ることができません。でも江戸時代ではなく、平安時代の旧跡が目当ての私たちは、そんなことにはめげません。とりあえず「今切」(海釣公園)に行って撮ったのが上の写真。汽水湖というのは、養分が多いのか、養殖が盛んですし、今切も「海釣公園」となっていて、「海釣公園」という名にふさわしくたくさんの釣り人が糸を垂らしていました。公園内にある観光案内所で浜名の橋跡の場所を聞こうと思ったら、やはり月曜日はお休みとわかり、大ショック。グーグルマップでも、普通の地図でも所在が明らかでない「浜名の橋跡」を尋ねる手がかりがなくなってしまったのです。けれど、ジャンボタクシーの運転手さんは、勉強熱心なよい方で、関所や豊田佐吉記念館が休みであるということをきちんと調べていて、心配してくれたのですが、観光案内所が休みとわかると、市役所(新居支所)に連れて行ってくれました。市役所は当然ながら月曜日でもやっていて、「浜名の橋跡」をさがしているというと、詳しい方がいて、ゼンリンの地図を出しながら説明してくれます。運転手さんを呼んで、道順を説明してもらい、浜名の橋跡に向けて出発。
新居市庁から県道417号線を少し西にゆき、4本目の曲がり角に「橋本」という交差点があります。そのあたりの地名が「橋本」、今は内陸ですが、かつて「橋本宿」があったところ、橋のふもとあたりと考えられます。交差点を左折するとすぐ諏訪上下神社(おそらく後代に勧請されたものと思われます)があります。
約300メートル進むと浜名川(明応大地震で流れが逆になったという)にかかる橋があり、そこを左折して1ブロック進むと「浜名橋跡」の看板がありました。思わず、皆で「あった!!」と快哉を叫びました。他の場所に比定する説もあるようですが、現在の私たちには、ここを見つけるだけで精一杯。一度行ってみれば、グーグルのストリートビューで場所を出すことはできますが、撮影角度のせいか「浜名橋跡」の看板が、あまりはっきりしないので、行ってみた人でないとわからないかもしれません。証拠写真を載せておきますね。
松が一本だけ残されていて、あとは切り株がいくつか、松食い虫かなにかのせいでしょうか。
浜名川には栴檀の花が咲いていました。華やかさはありませんが、上品な紫でふちどりされていて、仄かな香りがします。好きな花の一つです。
新居宿の次の白須賀宿を経由し、国道一号を通って、今切を渡り、一つ前の舞阪宿まで戻り、舞阪駅で2時間の旅は終わり、運転手さんにお礼をいって文学散歩は終わりました。午後は花博が催されている浜名湖ガーデンパークへ。
ガーデンパークのタワーからみた浜名湖大橋。
ここからは翌日21日にいった浜名湖フラワーパークです。
温室にある青い胡蝶蘭。
こちらは熊のトピアリー。
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