86 浜名の橋 その2ー『百人一首一夕話』の挿画解説

浜名の橋 その2ー『百人一首一夕話』の挿画解説

                          2024.5.20撮影 
 
 今切(いまぎれ)口にかかる浜名大橋。橋の手前側は浜名湖、橋の向こう側は太平洋です。国道1号の自動車専用道路浜名バイパスのほぼ中央に位置する橋です。北側には新幹線と国道一号の本線も通っています。私たちは新幹線に乗れば、浜名湖、弁天島を何気なく見て通り過ぎるのですが、ここはかつては現代のように道が繋がってはいませんでした。正確に言えば、繋がっていたこともあったのですが、大地震によって切れてしまったのです。「今切(いまぎれ)」とは、そうした意味で大変臨場感のある名です。その1に載せた『百人一首一夕話』重之の挿画部分にあった「河伯喜び、海若怒(っ)て、終に桑田碧海と変ず」とは、室町時代に起こった「明応地震 (めいおうじしん)」を指すと考えられます。

  『世界大百科事典』には、明応地震」は次のように説明されています。
1498年9月20日(明応7年8月25日)午前8時ころに東海道沖に発生した海洋性巨大地震。既知の史料は、この地震の全貌を明らかにするには、まだ足りない。房総から紀伊にかけての太平洋沿岸で強く感じ、熊野本宮の社殿が倒れ、那智の坊舎が崩れ、湯ノ峰温泉の湧出が止まり、遠江では山が崩れ、地が裂けた。この地震による津波は、紀伊から房総の沿岸を襲い、伊豆の新島では1人が死亡、千葉県小湊では誕生寺が流され、浜名湖の岸が切れて海に通じ、今切という地名が残っている。また伊勢では津波で塩田などに被害があり、塩屋村は180戸がほとんど全滅し、生残者は、わずか4~5人という。《内宮子良館記(ないくうこらかんき)》によると伊勢方面で溺死者1万5000人余という。この地震の規模は、マグニチュード8以上と推定され、京都での余震は8月6回以上、9月17回以上で閏10月まで続いた。

 今年、令和6(2024)年1月1日に発生した能登半島大地震は、マグニチュード7.6、最大震度7、まだ記憶に新しい平成23(2011)年3月11日14時46分に発生した東日本大震災は、マグニチュード9.0、宮城県北部の栗原市で最大震度7とされますから、東日本大震災クラス、しかも房総から紀伊にかけてという非常に広範囲の地震で、津波の被害も紀伊から房総の沿岸を襲うという大きな規模のものでした。「今切」とは、この地震で州が切れ、湖口が決壊して海と通じたことによる名称なのです。

 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(浜松市立図書館HP)の浜名湖の「今切変遷図」 



松並木の東海道が描かれていて、浜名の橋がかかっているのがわかります。
  
 




 こちらは「今切」ができた後の地図です。年号などははっきり読めないのですが、砂州が切れて、逆に西側はつながってしまっていますね。

  




 遠江の国という名称は浜名湖によっていて、浜名湖は、京の都からみて遠いところにある淡水湖「遠つ淡海」だから「遠江」、近くにある淡水湖は「近つ淡海」、「近江」国にある琵琶湖です。浜名湖は、州によって海と隔てられた淡水湖であったようですが(浜名の橋は、淡水水から流れ出した川の上に架けられたもの)、明和大地震によって今切ができたことによって海水が流れ込む汽水湖となりました。

  今切では舟が必要ですから、浜名と今切で二回舟に乗るというのは無駄、全て舟で渡る方がよいということになった、あるいは今切変遷図でみると、浜名の橋の部分は陸地になってしまったと思われ、ういずれにしても浜名の橋は要をなさなくなる、高いお金をかけて橋を作る必要が無くなったのでした。

 そのために、頼朝などが泊まったことで知られた、浜名の橋のふもと付近にあった「橋本」宿はすたれ、かわりに橋が壊れて渡れない時(『更級日記』の記述)の舟着き場であったと思われる新居宿(『一夕話』では「荒井」宿)が発展し、江戸時代には関所が設けられ、現存する最古の関所として、復元整備され、現在は新居町の観光の目玉となっています。

 5月20日、21日、講座の有志の方と浜名の橋と今切、花博を見る一泊二日のツアーを企画しました。ところが、私たちが行った20日は月曜日、月曜日は、湖西市の主な観光名所はほぼ全休で、新居関所も見ることができません。でも江戸時代ではなく、平安時代の旧跡が目当ての私たちは、そんなことにはめげません。とりあえず「今切」(海釣公園)に行って撮ったのが上の写真。汽水湖というのは、養分が多いのか、養殖が盛んですし、今切も「海釣公園」となっていて、「海釣公園」という名にふさわしくたくさんの釣り人が糸を垂らしていました。公園内にある観光案内所で浜名の橋跡の場所を聞こうと思ったら、やはり月曜日はお休みとわかり、大ショック。グーグルマップでも、普通の地図でも所在が明らかでない「浜名の橋跡」を尋ねる手がかりがなくなってしまったのです。けれど、ジャンボタクシーの運転手さんは、勉強熱心なよい方で、関所や豊田佐吉記念館が休みであるということをきちんと調べていて、心配してくれたのですが、観光案内所が休みとわかると、市役所(新居支所)に連れて行ってくれました。市役所は当然ながら月曜日でもやっていて、「浜名の橋跡」をさがしているというと、詳しい方がいて、ゼンリンの地図を出しながら説明してくれます。運転手さんを呼んで、道順を説明してもらい、浜名の橋跡に向けて出発。

 新居市庁から県道417号線を少し西にゆき、4本目の曲がり角に「橋本」という交差点があります。そのあたりの地名が「橋本」、今は内陸ですが、かつて「橋本宿」があったところ、橋のふもとあたりと考えられます。交差点を左折するとすぐ諏訪上下神社(おそらく後代に勧請されたものと思われます)があります。 







 







 約300メートル進むと浜名川(明応大地震で流れが逆になったという)にかかる橋があり、そこを左折して1ブロック進むと「浜名橋跡」の看板がありました。思わず、皆で「あった!!」と快哉を叫びました。他の場所に比定する説もあるようですが、現在の私たちには、ここを見つけるだけで精一杯。一度行ってみれば、グーグルのストリートビューで場所を出すことはできますが、撮影角度のせいか「浜名橋跡」の看板が、あまりはっきりしないので、行ってみた人でないとわからないかもしれません。証拠写真を載せておきますね。

 松が一本だけ残されていて、あとは切り株がいくつか、松食い虫かなにかのせいでしょうか。





 浜名川には栴檀の花が咲いていました。華やかさはありませんが、上品な紫でふちどりされていて、仄かな香りがします。好きな花の一つです。






 新居宿の次の白須賀宿を経由し、国道一号を通って、今切を渡り、一つ前の舞阪宿まで戻り、舞阪駅で2時間の旅は終わり、運転手さんにお礼をいって文学散歩は終わりました。午後は花博が催されている浜名湖ガーデンパークへ。

ーデンパークのタワーからみた浜名湖大橋。

  





ここからは翌日21日にいった浜名湖フラワーパークです。



温室にある青い胡蝶蘭。

入り口付近にある鹿のトピアリー。



  こちらは熊のトピアリー。













  スペイン、ビルバオ、グッゲンハイム美術館の入り口にお座りした巨大な子犬パピーを思い出しました。
        
             2015.8.25撮影

 横向きの写真なので、あまり似ているようには見えませんね。

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