85 浜名の橋 その1ー48源重之ー『百人一首一夕話』の挿画解説
85 浜名の橋 その1ー48源重之ー『百人一首一夕話』の挿画解説
巻之四 三十八裏 四十表
【翻字】
和名抄云
浜名 波万奈
三代実録云
陽成天皇元慶八年。九月朔。遠江国浜名ノ橋。長サ五十六丈。広サ一丈三尺。高サ一丈六尺云々
阿仏十六夜日記
はまなのはしより見わたせばかもめといふ鳥いとおほくとびちがひて水のそこへもいる岩のうえにも居たり。
かもめゐるすざきの岩もよそならず波のかげ( ※かず)こそ袖に見なれて
さらしな日記
浜名のはしくだりし時は黒木を渡したりしこのたびのぼりしにはくろ木だになし舟にてぞわたる。
浜名(はまな)の橋(はし)は遠江国(とうとうみのくに)にあり。いにしへ浜名(はまな)の湖(みづうみ)より落(おつ)る。下流(かりう)に渡せる橋(はし)なりしが。河伯(かはく)喜(よろこ)び。海若(かいじゃく)怒(いかつ)て、終(つひ)に桑田碧海(さうでんへきかい)と変ず。今(いま)の東海道(とうかいどう)荒井(あらゐ)の駅(えき)の西(にし)なる。橋本邑(はしもとむら)は、其(その)遺跡(いせき)なりとぞ。
【大意】
『和名抄』が云うには「浜名」は(訓読)「波万奈(はまな)」。
『日本三代実録』陽成天皇の元慶八年九月朔に「遠江国浜名の橋、長さ169.68m、広さ3.9m、高さ4.8m」という記載があると云々。
阿仏尼の『十六夜日記』には、
浜名の橋から見渡すと、鷗という鳥がたくさん飛び交って、水の底に入るのも、岩の上にとまっているのもいた。
鷗のいる州埼にある岩も私に関係のないものとは思われない。波の数は、袖に見馴れた涙 の数と同じくらいなのだから、とある。
『更級日記』には、
浜名の橋は、下向した時には皮のついたままの丸太を渡したものだったが、今度は、その跡すらみえないので、舟で渡った、とある。
浜名の橋は遠江国にあり、昔浜名の湖から落ちる下流に渡した橋であったが、川の神が喜び、海の神が怒って、遂に桑畑が碧の海に変じた(明応大地震による津波を指す。語釈浜名の橋及びその2参照)。今の東海道荒井(現在は新居)の駅の西にある橋本邑はその遺跡であるという。
(凡例)
⑴ルビは()内に入れ、すべてひらがなとした。
⑵句読点、仮名遣い、送り仮名は原文のまま。くり返し符号は適宜読み易いように処 理してある。
⑶改行は本文通りではなく、読み易いように改めた。
⑷漢字は可能な限り新字体に改めた。誤字と思われるものも原文のままとして、※をつ け、【注・語釈】のところに正しいと思われる字を注記した。
【注・語釈】
『日本国語大辞典』『国史大辞典』『日本大百科全書』『世界大百科事典』などを参考にした。
和名抄 『和名類聚抄』の略称。平安中期の漢和辞書。承平四年(九三四)頃成立。醍醐天皇皇女勤子内親王の令旨により、源順が編纂し、撰進した。天地・人倫など部門別に漢語を掲出、出典・音注・証義を示し、和名を万葉仮名で記し、和漢の典籍からの引用が豊富。百科事典としての機能も果たし、その資料的価値は大きい。十巻本と二十巻本とがある。ここでは「浜名」を万葉仮名で「波万奈」と訓じている。
三代実録 日本三代実録。六国史の第六番目。五〇巻。源能有、藤原時平、菅原道真らの撰。醍醐天皇の延喜元年(九〇一)完成。清和・陽成・光孝の三代三〇年間を編年体で叙述。六国史中最大の巻数を持ち、内容も精細かつ正確、政治・法制に関する記事が多いのが特色。
陽成天皇 第五七代の天皇。名は貞明。清和天皇の第一皇子。母は藤原長良の女高子。3か月にして皇太子となり、貞観一八年(八七六)、9歳で清和天皇の譲位を受けて即位、高子の兄基経が前代に引き続いて摂政となったが、乱行多く基経と対立が続き、元慶八年(八八四)光孝天皇に譲位した。
遠江国 現在の静岡県西部に位置した旧国名。遠州 。東海道に属する上国(『延喜式』)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。
浜名橋 古代東海道に架けられた橋。新居町を流れた旧浜名川に架けられていたとされるが、浜名湖北部の引佐細江付近に比定する説もある。古代以来の交通の要衝で、歌枕としても名高く多くの歌人に詠まれるとともに、『更級日記』『枕草子』(「橋は」)『十六夜日記』および多くの紀行文『平家物語』、『源平盛衰記』など軍記物語に登場する。しばしば橋は流出、焼失され、再修造されることが繰り返されたが、明応七年(一四九八)の大地震で今切(いまぎれ)口ができたことなどによって橋はなくなった。
阿仏 十六夜日記
鎌倉中期の紀行文。阿仏尼作。夫藤原為家の死後、実子為相と先妻の子為氏との播磨国細川庄をめぐる領地相続争いの訴訟のため、弘安二年(一二七九)一〇月一六日に京都から鎌倉に下ったときの日記。出立事情の説明、道中風物、鎌倉滞在記、巻末の長歌から成る。多くの和歌を挿入し、擬古文体を用いる。浜名の橋は、弘安二年(一二七九)訴訟のため鎌倉に赴く途中の記述。
州崎 砂が堆積した州が長く水面に差し出たところ。当時の地図でみると、まさにその通り、突き出た長い州に浜名の橋がかけられており、『十六夜日記』の記述が正確であることが知られる。
※波のかげ 意味が通じない。『十六夜日記』の本文にある「波のかず」として訳す。
更級日記
仮名日記文学。菅原孝標女の著。一三歳の寛仁四年(一〇二〇)九月、父の任国上総(千葉県)から帰京した旅に筆を起こし、夫、橘俊通と死別した翌年、康平二年(一〇五九)五二歳の頃までの回想記。物語への憧れと夢の記事が多い。平安時代の中流貴族の女の半生が鋭い感覚で印象的に記される。「浜名の橋」は、帰京の時のことを記した上洛の記に記載され、行く時は黒木の橋だったが、帰りはなく舟で渡った、とある。
黒木 皮のついたままの丸太。製材してない皮付きの材木。
河伯 川の神。『漢書』『続日本紀』『和名抄』『蜻蛉日記』などにみられる。
海若 海神の名。『楚辞』『椿説弓張月』などにみられる。
桑田碧海 桑畑が海に変わること。有為転変のはなはだしいことのたとえ。滄海桑田。
東海道荒井の駅 東海道五十三次の一で、江戸から三一番目の宿。浜名湖西岸の湖畔に位置し、新居関所・今切湊が置かれた交通の要地。荒井・新井などとも記された。明応東海地震などにより浜名湖と遠州灘を結ぶ今切が形成されると、東対岸に位置する舞坂との間に中世東海道の渡船場が置かれ、橋本宿に代わる交通上の要衝となり、湊および関所の機能も有した。
橋本邑 中世東海道の宿。史料には橋下駅などともみえる。古代より名勝浜名橋の所在地としてその風光をうたわれ、また鎌倉と京とのほぼ中間にあたることから交通や戦略上の要地であった。『海道記』『東関紀行』『吾妻鏡』『増鏡』『源平盛衰記』などに登場する。一例をあげれば、『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)一〇月一八日条には、頼朝が上洛に際して橋本駅に宿し、群参した遊女に多くの贈物を与えていることが記される。
【解説など】 重之と浜名の橋の歌
浜名の橋は、『日本三代実録』元慶八年(八八四)九月一日条に、貞観四年(八六二)に修造されたが、二〇余年を経て壊れたため、元慶八年に遠江国正税一万二千六四〇束をもって改作することとなったとあり、以前には壊れていたことがわかります。
『百人一首一夕話』の本文には、源重之が浜名の橋を通った時に詠んだ、
水の上の浜名の橋も焼けにけりうち消つ波やより来ざりけむ(重之集・九四)
という歌があります。橋を焼く火をどうして波が寄ってきて消さなかったのだろうという、単なる思いつきに過ぎない歌のようですが、当時はこうして、その場に因んだ地名やものを即興で歌にするというのも歌人の大切な役割だったのです。この歌があるために重之の挿画部分は浜名の橋の解説となっているのです。源重之は、陸奥守となった実方についてゆきます。実方の赴任は、長徳元年(九九五)九月、東海道の要地浜名の橋はこの時焼失していたのです。
『更級日記』には、寛仁元年(一〇一七)、父の任国上総へ下った際には黒木の橋があったが、治安元年(一〇二一)任が終了し帰京する際に橋はなかったとありますから、その後黒木の橋がかけられ、四年の間に無くなったことになります。少し時代が下りますが、弘安二年(一二七九)訴訟のため鎌倉に赴く途中の阿仏尼の『十六夜日記』には「浜名の橋より見渡せば、鴎といふ鳥いと多く飛びかひて、水の底へも入る。岩の上にもゐたり」とありますから、橋はあったことになります。
こんなふうに幾度も壊れては造り替えられた浜名の橋がいつ頃まで架けられていたかは不明ですが、明応七年(一四九八)の明応東海地震は、浜名の橋に決定的な打撃を与えました。それについては次のその2で触れます。
重之の家集である『重之集』には、冷泉帝の東宮時代、帯刀の長であった時、東宮に歌を百首詠んで奉れば、三十日の休暇を与えようといわれ、春廿、夏廿、秋廿、冬廿、恋十、うらみ十の百首歌を献上したとあります。三十日の休暇、なかなか魅力的ですから、重之も頑張ったのでしょう。
『百人一首』の重之の歌は、この百首歌の恋十首の三首目にあります。
風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな
風が激しいので、岩に打ちあたる波が自分だけ砕け散ってしまう、(あの人は岩のようにつれなく、なんとも思ってくれないので)そんなふうに私一人だけが、心も千々にくだけるばかり思い悩むこのごろなのだというような意味ですが、重之はそんな岩のような女性に恋をした経験があるのでしょうか。百首歌ですから、自分の経験を詠むことがないとはいえませんが、殆どは虚構、この岩のように固くて冷たい、びくともしない女性というのもフィクションである可能性が高いです。ただ、恋がうまくゆかない男にとって、つれない相手の女性は岩のように固く冷たいと感じるものなのかもしれず、そうした気持ちをうまく表している歌ということはできそうです。重之の百首歌は、曾禰好忠の『好忠百首』と共に創成期の百首歌として名高く、『和泉式部百首』や『相模百首』の先駈となりました。
源重之は、平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人、清和天皇の皇子貞元親王の孫で、父従五位下兼信が陸奥(福島県安達地方)に土着したため、伯父兼忠の猶子となり、冷泉天皇の春宮坊の帯刀長(たちはきのおさ)となった後、貞元元(九七六)年七月相模権守赴任を最後に、以後栄進の道は拓けず、長徳元(九九五)年ころ藤原実方の陸奥守赴任を頼って陸奥に下り、長保年中(九九九ー一〇〇四)同地で没したようです。享年は七〇歳前後。官位停滞の不遇感を詠む嘆きの歌が目立ち、交友も源順 、曽禰好忠 、平兼盛ら沈淪の歌人が多く、藤原佐理(三蹟の一人) や藤原実方を頼って筑紫や陸奥に下向するなど旅をよくしたため旅の歌が多く、上にあげた浜名の橋の歌もその一つです。
この記事は、いわゆるお勉強になってしまったので、ちょっとつまらないと思われるかもしれません(書く方も面白くないので、飽きてしまって結構大変でした)。けれど(『百人一首一夕話』の講義ではお話したので、ご存じの方もいらっしゃいますが)、次の「その2」とセットで読むと、意外性があって面白いと思います。現在、鋭意執筆中。乞御期待。関連記事に86が出たら、できあがった合図になります。
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コメント
とても面白い解説でした。知らないままで終わってしまいそうな語句の宝庫でした。
ところで、「桑田碧海(そうでんへきかい)」に対して、「滄(蒼)海桑田(そうかいそうでん)」という田と海がひっくり返った四文字熟語も国語の辞典には出ています。碧、蒼、滄、それぞれが同じ濃い深い緑がかった青を表す色です。でも、色々探しても「碧海桑田」はなく、海が先に来ると「そうかいそうでん」になって「へきかいそうでん」とは言われなかったのでしょうか?という素朴な疑問が残っています。辞書でも「へきかい」だけはあり、「碧海」は「蒼海」と出ています。難しい~!?