4 47恵慶法師 番外編 朝顔ー蔓草の繁茂
47恵慶法師 番外編 朝顔ー蔓草の繁茂
二階のベランダの柵にからまって朝顔が咲いています。 毎朝、たくさん花を咲かせてくれてとてもきれいです。朝顔は繁殖力が強く、何年か前にいただいた種を蒔いたら、増えすぎて困り、種も処分してしまったのですが、一つだけ残っていて、春に双葉が芽吹いていたので植木鉢に移植しました。野菜の手入れは一生懸命しましたが、朝顔は放っておいたのに、どんどん延びて二階まで蔓を延ばし、夏の終わりにたくさんの花をつけてくれました。
帰らぬ夫、訪れの絶えた男を恨む女性の閨(ねや)の恨みを歌う中国の閨怨詩には、孤独な女性の哀しみを表現するために、「風」、「月」などといったいくつかの決まった風物が取り上げられますが、特に帰る人もいない荒れ果てた邸には草が繁茂すると歌われます。こうしたパターンは我が国にも受け継がれ、源氏に忘れられた末摘花の邸は、
かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西 東の御門を閉ぢ篭めたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を、馬牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめざましき。
(『源氏物語』蓬生)
と、「浅茅」が庭の表面も見えぬほどに覆い、「蓬」が軒端まで高く茂る、「葎」は、西東の門を閉じこめるほどの勢いであるとして描かれます。さまざまな草の繁茂を幾重にも畳みかける誇張表現は、源氏に顧みられない閨怨の女性、末摘花の窮状を示すための効果的な舞台設定となっているのです。
「浅茅」「蓬」はまっすぐに生えますが、「葎」は蔓が延びてからまってゆく植物、「浅茅」や「蓬」に負けないくらいすさまじい生命力をもっています。残されたたった一つの種から、二階まで伸び上がってきてたくさんの花を咲かせた朝顔をみて、そんなことを思ったりしました。
ついでに言えば、閨怨詩では、草が繁茂する邸に夫が訪れることはありません。訪れぬままで、時は凍結してしまっているのですが、蓬生の巻は、来ないはずの光源氏が訪れることによって物語が始まります。そんなふうに考えると、『百人一首』の、恵慶法師の歌にも八重葎がでてきます。出典を示すと、
河原院にて、あれたるやどに秋来といふ心を人人よみ侍りけるに
やへむぐらしげれるやどのさびしきに人こそ見えね秋はきにけり(『拾遺集』秋・
140/『恵慶集』101)
ということになり、元源融の邸であった、荒廃した河原院にも秋がやってきたというのですが、邸の荒廃の情景が八重葎が茂るとして歌われています。中国詩の伝統では、八重葎が茂る邸には誰も来ないはずなのに秋はやってきた、人ではなく秋ですから、寂しい情景は変わらないのですが、このように秋という季節が擬人化されることで、閨怨詩の型の逆手をとりつつ、清澄な秋の到来を効果的に詠む歌となり得ているのでしょう。
コメント
浅茅と蓬と葎との違い、大変勉強になりました。
我が家では、同じ朝顔の仲間の外来種「ルコウソウ」が、まさに葎といった有様で繁殖しているのですが、星形の赤い小花をたくさんつけて、とても明るく陽気な雰囲気です。もしこの草が末摘花の屋敷に蔓延っても、鼻の色には合いますが、源氏があわれを催すような景色にはならなそうです。
思いたって葎をネット検索 葎は小花を付け葉も隙間ありで涼しげに見える
我が宿には葎は見えず へくそ葛、やぶからし、盗人萩等どうしようもない方々が絡まり初夏に見えた桔梗もいつの間にかやぶからしに囲われ美しい紫色も見えず立ち枯れ 生い茂った草が庭中で茂れる宿の寂しくはほんの少し同じか!
朝顔でも咲いてくれればよかったのに
今は柿、はなみづきの枯葉が風でカサコソ音を立てる我が宿にも清澄な秋は到来
恵慶の歌は«this is 秋» 寂し感が大で好きです