30 1天智天皇 番外編(2)ー天翔ける魂(山上憶良の有間皇子追悼歌)

 1天智天皇 番外編(2)ー天翔ける魂(山上憶良の有間皇子追悼歌)

   『万葉集』巻二には、有間皇子の自傷歌二首に続いて、次のような歌が載せられています。

  長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ )              の結び松を見て哀しび咽べる歌二首

磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見むけむかも(『万葉集』・143)

(磐代の岸の松の枝を結んだという人は,立ち帰ってまた見ることができただろうか)

磐代の野中に立てる結び松心も解けず古思ほゆ(『万葉集』・144)

(磐代の野の中に立っている結び松、いまだに結ばれたままでいる松のように私の心の悲しみも解けず、昔のことが思われてならない)

 この二首は磐代の結び松を通して、有間皇子を追慕した歌、皇子の死から二十三年後のことです。文武朝大宝元(701)年10月紀伊行幸の時の歌ではないか、とされています。一首目は、皇子が立ち返って結び松を見ることができただろうかという疑問の形をとりつつ、松を結んだ甲斐もなく、それがかなえられなかったことを暗に示しており、それを前提として、未だに皇子がその手で結んだ松はそのまま残されていて、それを見ると自分の心もむすぼほれて、昔のことを思わずにはいられないというのです。

    山上憶良は、意吉麻呂の歌にこたえて、こんなふうに詠みます。

   山上憶良の追ひて和へたる歌

 天翔(あまかけ)りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(『万葉集』・145)

(天空を翔り通いつつ皇子の魂はいつもこの松をご覧になっておりましょうが、人は知るよしもありません、でも松は知っていることでしょう。)

 憶良は大宝二年(702年)に遣唐少録として渡唐しているため、この歌が詠まれたのがそれ以前かあるいは以後か明確ではありませんが、帰京(704年)以後に詠まれたとみれば、少し時がたってからのこととなります。 皇子が戻り得なかったことを深く悲しんだ意吉麻呂の歌に対して、皇子の魂だけはつねに天翔り来て、この松を見ているのだと慰めている歌です。 この歌の初句は万葉仮名で「鳥翔成」と書き、訓読については諸説がありますが、皇子の魂が、鳥のように天空を飛翔するという考えに基づいた表記であるといってよいでしょう。

 辰巳和弘は『風土記の考古学』という本のなかで、紀伊国牟婁の渚、田辺市の岩陰遺跡の洞窟に、6歳くらいの男の子が葬られており、その胸の位置に、コアジサシの完全骨格が発掘されたという報告を載せています。コアジサシは、夏にシベリア、サハリン、千島列島で繁殖し、日本には春と秋に現れる渡り鳥です。「子供の魂がコアジサシに導かれ他界へと無事にたどりつけるよう、さらには渡り鳥のように現世に再び渡り来て欲しいという両親の切なる願いが胸を打つ。」とあります。  

 こうした考え方は日本の文献だけではなく、中国の文献である正史『三国志』(『三国志演義』ではなく、正式の歴史書)の「魏書(魏志)」の東夷伝・「弁辰」のなかにみられます。これは、卑弥呼のことが書かれているとして知られている「倭人伝(いわゆる魏志倭人伝)」の少し前にある記述なのです。そこには、

「以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚(大鳥の羽をもって死を送る、其の意は死者をして飛揚せしめんと欲するなり)。」

とあります。大きな鳥の羽をもって死者に随葬させる、それは死者に天高く飛んで行かせようと願ってするのである、というのです。

  こうした記載があることは、3年ほど前(2019.3.21)に韓国、釜山の金海国際空港に近い国立金海博物館を訪れ、今これを書くにあたって改めて博物館のホームページを調べて知りました。 

 国立金海博物館は、4~6世紀頃、鉄生産が盛んであった加耶国の文化に因む文物を中心に展示しています。博物館のある場所がかつて加耶国(一部は「弁辰」)であったからです。加耶は新羅や百済、古代日本の倭、さらに中国などと交流を重ねながら発展しますが、徐々に勢力が弱まり、562年には滅亡しました。古代日本とも交流の深かった加耶の文化を知ることのできるこの博物館は無料、しかも無料の日本語解説(時間指定ではありますが)があるのです。面白いものはたくさんありましたが、二階の第二番目の展示ケースの中には鳥型の器がいくつも並べられていて、「古代社会では、鳥は死んだ人の魂を導く伝達者として神聖に考えられていて、鳥を見て作った土器を死んだ者と共に墓に埋めました。」といった説明をされた時には、本当に驚きました。 

 


鳥模様の土器には、背中と尾部に液体を入れたり、つなぐことのできる穴があります。首を切った鳥様土器や頭だけ入れる場合もあるため、鳥に関するさまざまな儀礼を行ったことがわかります。(博物館のHPの説明。写真は自分で撮影したもの)


                                                         


 このように鳥が魂をはこぶという考え方については、西村亨が「鳥が霊魂を保持する限りにおいては、それは霊魂の使者なのではなく、霊魂そのものである。であるから、鳥が霊魂を運ぶ使いであるとするのは便宜的な考え方であった、古風に言えば霊魂そのものが鳥と化し、あるいは鳥の姿をとって異界から訪れてくるのである。」(「鳥のあそび考ー古代鎮魂の一考察」〈『芸文研究』31  1972-02〉)としていますが、倭建命の魂が八尋白智鳥(『古事記』、『日本書紀』では、「白鳥」)に化したという物語はそれが如実に反映されたものといえましょう。
  鳥が魂を運ぶ、あるいは魂が鳥と化すという物語のもとには、亡き人の魂が鳥のように天空を飛翔して欲しいという残された者の願望があります。

  ですから、有間皇子の魂が鳥となって飛翔しているという願いをこめた憶良の歌にある「鳥翔成」という万葉仮名の表記は、こうした海を越えた古代の人々の思いを伝えるものでもあるということができるように思うのです。


 わが国にも鳥型埴輪はいくつも残されています。画像検索すればたくさん出てきますが、
一つだけあげておきます。

            出土した3体の水鳥形埴輪(城山古墳)[国重要文化財]
            (藤井寺市のHPより)


 一番上の画像は天翔ける鳥(魂)のイメージがあるかなと思って選んだ中国の刺繍です。
(メトロポリタン美術館 Rank Badge with Paradise Fly-Catcher  late 18th–early 19th century China〈三光鳥の階級章 18世紀後半から19世紀初頭 中国〉)

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コメント

木の葉 さんのコメント…
藤白神社の大楠、見事です。大木になれる確率は非常に低いと聞きます。韓国の鳥型土器、日本の鳥型埴輪、初めて見ました。東側アジア圏に鳥への信仰が共通してあった?大学の上代文学購読で、次田真幸先生が「(倭建命が)白鳥となりて天翔りつ」は「古事記」の最も美しい場面です!と仰っいましたが、先行文献があるとは話してなかった。ぎし倭人伝と「古事記」の表現との共通点は、初めての発見ではありませんか?
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん

 コメントありがとうございました。そうですね。次田先生の講義が大変印象に残っていたので、この話
を書くことができたのかもしれません。はるか昔のこと(お互い年がバレますね)ですから、海外との関わりなどは、まださほど研究が進んでいなかった時代でした。

 現在は、日本文化と東アジア文化全体との関わりを考える研究が進みつつあります(わかりやすいところでいえば筑波山の歌垣も、中国西南部の少数民族の歌掛けと関わる可能性があるとする辰巳正明氏の研究など)。私もそうしたスタンスで論文を書くことが多いので、ついつい論文的リサーチをしてしまいました。今回は、見付けたことをそのまま書いてしまったので、先行論文について、十分調べ尽くしてはいないのですけれど、ざっとみたところでは、死者の魂が鳥のように飛翔することを願うという日本文学の表現が、海外の文献にあるという論はみつからないようです。あとで見つかりましたら、載せたいと思っています。

 それにしても『魏志倭人伝』として知られる卑弥呼の記載がある箇所の少し前に、こんな一節があるなんて、大変意外な発見でした。

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