38 19伊勢(2)ー歌人伊勢と伊勢の百人一首の難波潟の歌

 19伊勢(2)ー歌人伊勢と伊勢の百人一首の難波潟の歌

 
 『百人一首一夕話』のことを中心に書いてゆくマニアックなサイトにする予定でしたが、半年が過ぎてみると、一応検索サイトにも載るようになり、『百人一首』の検索でこちらのサイトを見た中高生のために、『百人一首』の歌と歌人について説明をした方がよいかもしれないと思い始め、少しだけ方針変更です。
 『百人一首』のいろいろな注釈書や参考文献をもとに、私が考えた時点での結論のようなものを書いてゆきます(インターネット上の『百人一首』についての他のサイトはあまり見ていません)。

 前回の続きで、伊勢から始めます。

伊勢について

 小野小町が、いわゆる六歌仙時代、仁明天皇の頃の歌人であるのに対し、伊勢は、『古今集』の時代に非常に重んじられ、紀貫之・凡河内躬恒らに伍して屏風歌や歌合にもたびたび出詠した、ただ一人の女流の専門歌人ということができます。

  正確な生没年はわかりませんが、寛平三(八九一)年ころ、宇多天皇の女御温子(基経の娘)の女房として出仕、まもなく温子の異母弟である藤原仲平(基経の二男)に愛されるようになりましたが、仲平は身分にふさわしい相手と結婚することになり、傷心して父のいる大和国に下ります。温子の強い要請により再出仕した伊勢は、宇多天皇の寵を得て皇子を生みますが、幼時に早世します。温子が亡くなった後、宇多天皇の第四皇子で醍醐天皇の同母弟、玉光宮と号されるほど美男子だった敦慶親王と結ばれ、一女中務を生みます。二人の関係は親王が亡くなるまで続き、承平七(九三七)年には陽成院七十賀に歌を詠進、天慶元(九三八)勤子内親王薨去時には弔問の歌を詠むというように、最晩年まで、宮廷社会における伊勢の歌人活動は衰えませんでした。

 和泉式部の先蹤ともいうべき華麗な恋の遍歴ですが、伊勢には和泉式部のような奔放さはなく、理性的で控えめであったにもかかわらず、美しく才気あふれる女性だったので、身分の高い男性が次々と愛を訴えたのでしょう。仲平の兄である時平も、『平中物語』の平中もその中に入っています。平中については、また次回に。
 
 伊勢の百人一首歌

   難波潟みじかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
   (難波潟の芦の短い節と節の間のように、ほんのわずかの間でも、〔あなたに〕逢わずにこの世を終えてしまえというのですか。)

 「逢はでこの世を過ぐしてよとや」というのは「逢わないままでこの世を過ごせというのですか」という現代語訳の方が穏やかですが、「てよ」は完了の助動詞「つ」の命令形で、「過ごす」ことが完了するので。この世を終えてしまえ、ということになります。相手に詰め寄るような気迫のある命令形ですね。参考までに語釈をあげておきます。

 (石山切『伊勢集』 石山切『伊勢集』は西本願寺本系統『伊勢集』の断簡。料紙が美しいことで知られ、書道手本にもなっている。写真は、東京国立博物館「詩歌と書」の展覧会〔1991秋〕の図録から)






 (語釈)
難波潟   難波の海。現在の大阪湾の入江をいうが、当時は干潟になって芦が生え、芦の名所として知られる。

みじかき芦の   芦の茎は節と節の間が短いと考えられていた。「なには潟みじかきあしの」は「ふし」を導く序詞。

ふしの間も  ほんの短い間でも。「ま」は、芦の節と節の間が短いという空間的「間」に、時間的に短い「間」を掛ける。ここで「難波潟の芦の節の間が短い」という情景の表現から「ほんの短い間でも」という心の表現へと歌が展開する。

逢はでこの世を  逢わずにこの世の中を。「で」は打消の接続助詞。「此よ」は、この世の中。「よ」は男女の仲をいうこともあるが、この場合は世の中。また、「節」と「節」の間を「よ」といい、「節」とともに「芦」の縁語となっている。

過ぐしてよとや  過ごしてしまえ(この世を終えてしまえ)というのですか。「てよ」は完了の助動詞「つ」の命令形で、「過ごす」ことが完了するので。この世を終えてしまえ、ということになる、相手に詰め寄るような気迫のある命令形。「や」は疑問の係助詞、ここで切れた形になっているので、下に「いふ」が省略されている。小田勝『百人一首で文法談義』は、相手が実際にこうしたことばを発したか否かを尋ねているのではなく、相手の行動がそのように発言したことと同じであると解釈されるとしているとする。つまり相手の男の態度をなじるような強い調子で非難することによって、自分の激しい思慕の情を伝える歌となっている。

*************

 さてこの歌は、勅撰集では『古今集』ではなく、『新古今集』に載せられています。伊勢が生きていた時代から約三〇〇年後、伊勢の歌は『古今集』にも載せられていますから、少し不思議な感じがします。家持の『百人一首』歌「かささぎの」も『新古今集』にあって、家持の歌ではないのですが、こんなふうに前の時代の歌人の歌が『新古今集』に載せられている時は要注意です。

   伊勢の歌は、勅撰集の他に、伊勢の個人歌集である『伊勢集』に残されています。
この難波潟の歌も『伊勢集』に載っていますが、巻末近くにある六十首ほどの歌群の中にあるのです。この歌群は、本来の『伊勢集』とはかかわりのない歌が混入されていて、そこにある歌は伊勢の作とは認められないということが、最近の『伊勢集』の研究によって明かにされています。つまり、この『百人一首』の歌は本当は伊勢の作ではないらしいのです。

    確かに、伊勢の歌はとても美しいですが、自分の感情を歌うにしても内省的で、どちらかというと控えめ、こんな風に相手に強くつめよるのは彼女らしくないと思えるので、やはり伊勢の作ではないと考えています。

参考文献 

『平安私家集』(新日本古典文学大系・岩波書店)の『伊勢集』の解説(平野由紀子)
『和歌文学大辞典』(古典ライブラリー)「伊勢」の項(山下道代)
『伊勢集全釈』(関根慶子・山下道代)

             目次へ

****************************
関連記事




コメント

木の葉 さんのコメント…
伊勢の歌は、技巧が素晴らしく、当時の人々に称賛されたろう、位しか考えませんでした。華麗なる恋の遍歴とも相まって、王朝文化の優雅さが伝わります。伊勢でなければ誰の作?歌の手練れが犇めいていて、和歌の裾野が広かったんですね。
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん、コメントありがとうございます。最近は私家集(個人歌集)の研究が進んできて、いろいろなことがわかってきたのですが、わからないことも多く、『伊勢集』のその歌群の作者は、わかっている歌もありますが、わからないものもあって、「難波潟」の歌の作者は不明です。ただ、『古今集』自体の歌にしては、技巧が複雑なので、少し後代の人の作ではないか、といわれています。

人気の投稿