29 1天智天皇 番外編(1)ー有間皇子神社と貴志川の旅

 1天智天皇 番外編(1)ー有間皇子神社と貴志川の旅

  しばらくご無沙汰していました。いくつか書きたいことはあったのですが、まとまった形にならないうちに日が過ぎてゆきました。いつものことですね、すみません。

 猫好き列車好きの連れ合いが、猫駅長で有名な貴志川に行こうというので、出かけることにしました。同じように猫好きの娘が独身だった時、貴志川のタマ駅長を見に行こうと誘われたけれど仕事が忙しくて断ったことを反省(?)しているらしく、今更ながら行くことにしたようです。娘は仕事と子育てに忙しいので、私が付き合うことに。

 和歌山に二泊するので、猫駅長だけでなく、2019年3月に講座の皆さんと出かけた「二つの妹背山を訪ねてー吉野・五條から和歌浦へー」(毎年恒例の旅でしたが、コロナのために以後行われぬまま)というテーマの旅で、時間が足りず訪ねることのできなかった有間皇子神社に行ってみることにしました。

3月2日

 和歌山からJRきのくに線に乗り14分で海南駅に着きます。観光案内で道を聞くと、駅を出てすぐ左の道を歩いて20分くらいとのこと。

 熊野古道という道しるべ。中世熊野詣の紀伊路にあたる道筋です。 趣のある格子の家並が続きます。

   


祓戸王子
  海南はかつて熊野神域の入り口とされ、熊野一之鳥居があり、往時はこの鳥居を潜り、祓戸王子を経て藤白神社へ向かったということです。


 改築中の鈴木屋敷(全国の鈴木氏のルーツだそうです)を過ぎると藤白神社の入り口、大きな楠が出迎えてくれました。藤白神社の由来は古く、景行天皇の五年に始まり、斉明天皇四年に天皇が牟婁の湯に行幸された時に社を創建されたと伝えられています。境内の権現堂には藤白王子社の本地仏が祀られ、篤い信仰を集めてきたそうです。

   

大楠。根元部分しか写真に入りません(上の写真の鳥居の向かって右の木です)。古来畿内各地では、子供が生まれると藤、楠、熊の字をつけると長命となり、出世するといわれており、南方熊楠も名を授かった一人なのだそうです(熊・楠、二つも入っていますね)。




 神社に向かって右手に、境内社となっている有間皇子神社があります。有間皇子(640-658)は孝徳天皇のただ一人の皇子で有力な皇位継承者でしたが、孝徳天皇の死後、政治の実権を握っていたのは、甥の中大兄皇子(のちの天智天皇)でした。聡明な有間皇子は、身の危険を察知して狂者を装い、斉明天皇と中大兄皇子に牟婁の湯(白浜)への行幸を勧めました。その留守中、蘇我赤兄の奸計により謀反を企てたとして捕らえられ、斉明天皇・中大兄皇子のいる牟婁の湯に護送されてゆき、斉明4年(658)11月11日、藤白坂で処刑されました。




 神社の右手を藤白坂に向かって少しゆくと、ふもとに有間皇子を祀った碑があり、お花が供えられていました。





      有間皇子 自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首
 磐代の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまた帰り見む(『万葉集』・141) 
 (磐代の浜松の枝と枝を結び合わせて無事を祈る、命あって帰路に通ることがあれば、また見ることができるだろうなあ。)
 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(『万葉集』・142)
(家にいたならばきちんとした食器に盛る飯を、旅にある身なので椎の葉に盛ることだ。)
  『万葉集』のよく知られたこの二首は、皇子の辞世の歌のように思わがちですが、藤白坂で詠まれたのではなく、磐代(和歌山県日高郡南部町岩代、藤白坂からは73㎞ほど南)の浜で詠まれたものです。
                (みなべ町観光協会)

 藤白坂に護送される途次(死に向かう帰路)で詠まれたとする解釈も多いのですが、中西進、伊藤博は、赤兄によって捕らえられた皇子が、牟婁の湯へ送られる往路で詠まれたものとします。そう考えると、一首目の歌は、浜松の枝を結ぶという旅の無事や安全を祈って霊魂を結び留める呪的行為が、己の命の息災を願う思いと重ねられ、「真幸くあらば」という美しいことばからなる条件句は、これから牟婁の湯で受ける尋問を何事もなくやりすごせたなら、帰路にまたこの浜松を見ることができるだろう、そうであって欲しいという切なる祈りを込めた結句と呼応するのです。けれどそれがかなえられぬ願いであることを皇子自身よく知っているだけに、この歌は切ないのです。二首目の歌は、そのままの状況を詠んだ素直な歌ですが、「旅」だから食器もなく不便なのだといった程度のことではなく、謀反を企てた罪人として護送される身の不自由さを歎いたものとみるとその悲しみの深さがよくわかるような気がします。
 牟婁の湯に到着した有間皇子は、中大兄皇子の厳しい尋問に、ただ一言「天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)らず」と答え、藤白の坂で19歳の若い命を散らしたのでした。

  ざっくりしたものですが、地図に印をつけたものを載せます。番号は以下の通り。
 1  飛鳥岡本宮 
 2  磐代(歌)
 3  牟婁の湯
 4  藤白坂(死)

             (二宮書店 基本高等地図)

  「有間」という名は父孝徳天皇が有間湯(現在の神戸市の有馬温泉)で療養していたときに生まれたという説もあります。大伯皇女も生まれた地名に因んでいますから、当時そうした命名の仕方もあったのでしょうね。有間皇子の短い生涯に有間と白浜という現在でもよく知られている二つの温泉が関わっているというのは不思議な気もします。

  午後は貴志川へ。初代駅長のタマはもういませんが、大明神となって、コマ犬ならぬコマ猫になっていました。






 後任の駅長ニタマもお休みで、その代わりをつとめるヨンタマが勤務中(ガラスケースの中で、気持ちよさそうに眠っていました)。

 貴志川駅から、一日に3本くらいしか走らないコミュニティバスに乗って、「よってって」という和歌山の農産物が豊富なスーパーまで行って、新鮮な不知火(デコポン)とイチゴを買って一日が終わりました。


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コメント

木の葉 さんのコメント…
猫駅長の話題は聞かなくなりました。既に4代目とは👀‼️2泊でよくこれだけのルートを回りましたね。行動力に感服しました。有馬皇子は、正に歌の力で永遠の命を勝ち取った。未だに人々に信仰されていることに感動します。素晴らしい画像とともに
貴重な文章で、ダビデを追体験させて頂きました\(_ _)
M.Nakano さんの投稿…
木の葉さん

 コメントありがとうございます。ヨンタマは三代目で、何故か三タマはないのです。理由を聞いてみればよかった。猫駅長は、あちこちにいるみたいですが、初代のタマほどの猫はなかなかいないみたいで、話題にならないのでしょうね。

 続けようかどうしようかと思っている時に励ましの言葉を下さったことを感謝します。
 

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