17 筑摩神社と冬の虹
3日夜は米原で降り、琵琶湖のほとりのホテルに泊まりました。朝起きてみると、窓から琵琶湖を隔てて比叡山が見える絶景の宿です。ここに泊まったのは行きたかったところがあるから。このホテルの隣にある筑摩(つくま)神社です。
本殿がよく見えました。
黄葉が美しく散り敷いていました。この神社は『伊勢物語』百二十段に登場します。『伊勢物語』の全章段を購読していた時、たいていのところは想像がつくのですが、ここだけはまだ行く機会がなかった(米原は乗り換え駅であって降りたことはなかった)ので、とても気になっていました。
百二十段はとても短い章段です。
昔、男、女のまだ世経ずとおぼえたるが、人の御もとに忍びてもの聞えて、後ほどへて、
近江なる筑摩の祭とくせなんつれなき人の鍋の数見む
(近江の国にある筑摩の祭りを早く行ってほしい、私につれないあの人のかぶる鍋の数をみたいものだ。)
『伊勢物語』は大好きな作品ですが、この章段はあまりいただけません。うぶな女性だと思っていたら、あとでそうでもないことがわかったけれど、結局最後まで相手にされなかった男が詠んだ腹いせの歌なのでしょう。
『拾遺集』にはよみ人知らずとして『伊勢物語』とほぼ同じ歌が載せられ、歌論書でもある『俊頼髄脳』は、この歌とともに、「筑摩の祭」は、女性が通わせた男の数だけ鍋をかぶって奉納するという説明が載せられています。
「筑摩の祭」は、「宇治のあがた祭」、「越中鳥坂の尻叩き祭」とともに日本三大奇祭の一つといわれ、鍋の数を偽ると心身の具合が悪くなるという神罰が下るという一種の神判行事であったようです。
実際に行われていたとしたら、女性にとっては失礼な(残酷な)話ですので、米原市教育委員会や観光協会は、『伊勢物語』の歌は、祭があった証拠として引用しつつも、内容については詳しく触れず、この祭りの起源は諸説あるが、一説には筑摩神社の祭神が御食津大神(みけつおおかみ)という食物の神であること、筑摩の地が平安時代の書物「延喜式」に大膳職御厨という宮中の食物を司る機関があると書かれていることから、近江鍋と呼ばれた特産の土鍋に収穫した穀物などを入れて献じたことが始まりとも言われています、という解説をしています。
このように鍋冠祭の由緒については諸説あるのですが、大津にある「琵琶湖文化館」は、江戸時代の画家、吉村孝敬の手になる実際に鍋をかぶった成年女性を描いた「鍋冠祭図」を所蔵しています。リンクは以下の通りです。
http://www.biwakobunkakan.jp/index.html
リンクが切れている場合は、「琵琶湖文化館」のホームページの白い枠のなかに「鍋冠祭」と入れて検索するか、その頁で、近江の文化財→収蔵品紹介→絵画とすすめてゆけば、一覧のなかに鍋冠祭図が詳しい解説とともに載せられている記事を見ることができます。
結局のところ、そうした祭りが実際に行われていたか、あったとしてもいつまで行われていたかは不明なのですが、現在では、五月三日に数え年八つの少女たちが狩衣姿に張子の鍋をかぶって渡御し、本殿に参進するそうです。人気のない神社の社務所には、鍋をかぶった少女たちのスタンプが置かれていましたが、台が乾いていて、押すことができなかったので、スタンプ自体の写真を。
帰り際に見た部屋の窓からは、琵琶湖の島にかかる大きな虹の切れ端が見えました。
バスの窓からは、もう一つ内側の虹が(これは写真を撮りそびれました)。内側の虹は「主虹」、外側の虹は「副虹」、中国では虹を竜の雄雌とみて、「主虹」は雄で「虹」ですが、「副虹」は雌で「霓(ゲイ)」と呼ぶようです。長恨歌にある「霓裳羽衣の曲」の「霓」ですね。今回は、二つ同時ではなく外側の「副虹(霓)」」が先に見えたようです。実は帰りの新幹線の中でも、今度は湖ではなく山側に、虹の切れ端(これは虹か霓か不明)がみえましたので、全部で三つの虹を見ることができました。冬の虹は珍しいのだそうです。
米原駅を出てすぐ、車窓から見えた虹。山の中央あたりから斜めにかかっている。
虹を見るのがよい兆しであるかどうかはわからないのですが、一日に三つもみるのは初めて。もし虹が願いをかなえてくれるなら、来年はコロナが収まって、皆が普通の暮らしを取り戻せますようにとでも祈ればよかったと思いましたが、流れ星ではないから願いごとは無理かなあ。
コメント