21 東洋文庫見学 その1 モリソン書庫

東洋文庫見学 その1 モリソン書庫

 2021年12月1日の東洋文庫見学会。

 掲載が遅くなってしまって年を越してしまいました。すみません。写真を撮ってよいことがわかり、あわててスマホでとったのでピンボケ写真ばかりでどうにもならず、なかなか仕上げることができずにおりましたが、なんとかアレンジできそうなので書いてみます。

 待ち合わせの時間10時10分より早めに都営地下鉄三田線千石駅の改札口に着くと、もう二名の先客が。私の案内では心許ないと思ったのか、駅員さんに東洋文庫への道を聞いているようでした。親切な駅員さんが渡して下さった地図はこちら。


 千石駅から東洋文庫、六義園への道筋がとてもわかりやすく書かれています。前に東洋文庫図書館に来たときには迷ったので、これがあれば便利だったと思いましたので、載せておきます。千石駅からは約徒歩10分くらいです。駒込駅から行くこともできます。総勢14名、緊急事態宣言も解除されたので、希望者全員で行くことにして、ひたすら歩きます。

 アジアを中心とした古今東西の貴重な書物100万冊を所蔵する東洋文庫から選び抜いた書物を展示する東洋文庫ミュージアム、他の博物館や美術館に比べるとさほど知名度がなく、いつも開いているわけではありませんが、昔教科書で学んだことのある『東方見聞録』や『解体新書』などといったおなじみの書物を見ることができる貴重な博物館です。今回のテーマは、公開されて10年目にあたるので、開館10周年記念「東洋文庫名品展」です。
   

 
 パンフレットも、本の形になっていて凝っています。あらあら、よく見るとこの本は展示されているものを合成してできていますね。上と下と中の帯がネパールの「妙法蓮華経」、右上が『解体新書』、左上が初めてアンコールワットを紹介した『インドシナ中央部の旅』という本、下は国宝の『文選集注』です。「東洋文庫名品展」の文字の周りには赤い瑞雲と鳳凰が配されていますね(これは何から持って来たのかわかりません)、どこにも解説はされていなかったようですから、じっと見ないと普通の一冊の本かと思ってしまう、渋い遊び心満載のパンフレットです。

 入館料を払って二階に上ると、いきなりモリソン書庫の棚が三面に迫ってきて、圧倒されます。本好きにはたまらない空間です。
     


 まるで、ヨーロッパでみた、古文書の並んだ図書館みたい。ずっとここにいたいような気分になる人のために椅子も用意されています。中国、アジア、アラビア半島などの書物がずらりと並んでいますが、最上段左は45種の『東方見聞録』の刊本だそうです(遠くて文字は見えません)。下は向かって左側面、朝鮮、アジア全域、世界、中国の書物であると、イヤホンガイドが教えてくれました。




 この書庫のもとの持ち主は、外科医であり、ロンドン・タイムズの記者、後に中国の政治顧問となったオーストラリア人アーネスト・モリソン、彼が1897年から北京に赴任して以来、中国を中心とするアジア関係の欧文書籍を精力的に蒐集して作り上げたのが、二万四千冊のこの文庫です(展示されている書庫は、10年前に東洋文庫の一部が公開されるミュージアムが設立された時に復元されたもの)。
 1917年、モリソン文庫が売りに出され、3万5千ポンド(現在で約70億円)で購入したのが、三菱第三代社長である岩崎久彌でした。中国から船便で横浜港に到着、その日のうちに深川の三菱倉庫に運ばれましたが、9月30日から、深川は大暴風雨に見舞われ、文庫の三分の一弱が水に浸ってしまったといいます。三日三晩の不眠不休の救出作業を経て蘇ったモリソン文庫をもとに、1924年財団法人東洋文庫が設立されました(以上、「モリソン文庫渡来100周年 東方見聞録展」の解説をもとに再構成しました。間違いがあればご指摘下さい)。

 モリソン書庫を抜けると名品室、中国古代王朝である殷の時代に占いに用いられた獣の骨や亀甲に書かれた漢字の見られる「甲骨卜辞片」、漢字の最も古い形を鮮やかに見ることができてすばらしいです(キャッチコピーは「漢字のご先祖様みーつけた」)。上下に二つ並んでいる下段の右端は、占いに使われたものらしく、「雨が降るか?」という問いに、裏に「降るだろう」という答えが書かれているのだとか。

 (パンフレットから)

 地味ですが、なるほどと思ったのは「慈禧皇太后冊宝」の拓本。「冊宝」の意味はよくわかりません。「冊封」ならば任命書ですけれど、音通で「封」を「宝」にしたのかなというのは素人考えですね。解説には西太后が息子である同治帝結婚の吉事に「端佑」という名が追加され「慈禧端佑皇太后」となった時の記録とあります。「慈禧皇太后」は通称西太后のことですが、彼女の最終的な名は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后」(25文字)が正式なのだそうです。慶事があったり、功績をあげたりした場合などに名前が2文字ずつ足されていったのだとか。そういえば、阿倍仲麻呂が中国を去ろうとする時に王維が贈った詩の序に、玄宗皇帝(楊貴妃を寵愛したことで知られる)の名が「開元天地大宝聖文神武応道皇帝」(14文字)とあって、ずいぶん長いなあと思った記憶があります。『冊府元亀』巻一六によると、さらに「開元天地大宝聖文神武孝徳証道皇帝」(16文字)になったとあって、少し名前を変えて字数は2文字増えることになったようです。西太后の方が文字数が多いのは、ずっと後の時代だからインフレ状態になっていたためでしょうか。つまり、長ければ長いほど偉い、そうすると日本で一番偉いのは「寿限無」かも。

       (「東洋文庫名品展」の解説リーフレットより。慈禧皇太后冊宝」の拓本)

 あまり進みませんでしたが、長くなってしまいましたので、ここまでとします。「その2」に続きます。
 
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